正しい人 10月 : 小栢 健太の刘小东

10月
小栢 健太 刘小东 Liu Xiaodong
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Liu Xiaodong 
born 1963 in Liaoning, China.



  




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 1歳9ヶ月になる息子をつれて旅に出ることにした。日本を離れて家族3人で初の外国旅行になる。とはいえたいそうな旅行ではない、どこにでもあるたわいもない理由から、航空運賃のかからない年齢のうちに小さな休暇を家族で過ごそうと計画したものだ。旅のすべては妻が準備してくれた。行き先はグアム、ミクロネシアに浮かぶ日本からは最も近いアメリカの一つ。この島に渡る上で事前に用意した大きなプランは特にない。買い物と食事をすれば、自然に街は通り過ぎるから、それでたいてい満足する。アメリカ式のアルミ製のバスは観光客を運び、免税店では南太平洋風の面立ちをする現地生活者と会話がなされる。ホテルにはプールで遊ぶアメリカ海軍の兵士たちが楽しんでいる。彼らの間で流行るタトゥーの趣味は和式の入れ墨らしい。明くる日もまたその明くる日も日本人と同じくらいの韓国人がこの島に休暇にやって来る。そして国に帰国する。
「Wellcome to Guam is Good-bye Guam.」
通り過ぎる東洋人と落とされるウォンと円について思ったり思わなかったりしながら、現地でナイキのスニーカーを購入する。

 旅人をもてなし続ける南太平洋に浮かぶアメリカを見物する僕らには、ここがそういう国だと露にも触れず、息子は時折を上空を指差して戦闘機や旅客機に興奮していることを教えてくれる。彼がいることでいつもと少し空気が違うせいか、グアム版「カプリチョーザ」の店看板や「NTT docomo Pacific」のネオンが気になる。風景がオブジェになりそうな気がしてくる時の感じは久しぶりだ。ひょいと何かによって開かれると、僕らの中にも映画的なあるいは自分がモチーフになれる空間があって、外に出られるのだと、このとき知る。
 

”My only goal is to confront people and see them as they really are.”
(到達地点はそこにいる奴と向き合って、そいつらが本当にいるかを思えるかどうかだ。)ー*a

 絵画をつくり鑑賞を与えることよりも、むしろ風景の中にいる群像が環境を含みながらキャンバスと1対1の直接的な関係で結ばれ、結果として絵をつくることの経験の中に、他者の存在をパフォーマティブに示すことが刘小东(Liu Xiaodong)の魅力といえる。それらを鑑賞する手だては、絵画それ自身というよりは、むしろ映像によるプロジェクトのドキュメントだろうことが残念に思われる。

 絵画に登場する人間自身について、絵画から知るという方法が陳腐になって久しい。絵筆で描かれる人間は、分析的で内証的なモチーフへと向かったはずだ。僕らは、そのことについて社会主義リアリズムを通して一旦反逆するも、断念してしまったことになっている。70年代の早々に写真やライト・ボックスが人間を描きはじめるとき、ジェフ・ウォールやシンディー・シャーマンやフィリップ・ロルカ・ディコルシアらが登場する。それゆえというか、主題としての人間について、絵画を通じて僕らは思い出すことをやめた。フィクションとしてセットアップされた階層から、あえて冷たい視線で演劇性を断ち切る機械式の眼の方がずっとリアルだったからだ。写真に分があることは間違いなかった。

 グアムに行ったせいか、必要以上に大きいキャンバスを街やイーゼルに架けて人間を追う、刘小东(Liu Xiaodong)というこの気狂いに付き合ってみたいと思う気持ちになっている自分がいる。そして同時に思うことがある。「アジアのローカルは写真と合わない。オリエンタリズムから逃走しないと。」問題はかなり複雑なようだ。しかもチャイナはまだ暫く暮れそうにはない。



*a:ウェブサイト『Lisson gallery「Liu Xiaodong CV」』から引用、和文は筆者訳。




テキスト:小栢健太|アーティスト