正しい人 10月 : 荻野 瑞穂の『開かれ―人間と動物』 著:ジョルジョ・アガンベン



10月
荻野 瑞穂 開かれ ―人間と動物 著:ジョルジョ・アガンベン
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『開かれ―人間と動物』
著:ジョルジョ・アガンベン
訳:岡田 温司、多賀 健太郎
発行:平凡社(2004年)





















01. 人間と動物という奇妙なカテゴライズには、けっこう深い意味がある

 ジョルジョ・アガンベンの名作として知られるこの本には、『開かれ』という、ちょっと変わったタイトルが付されている。副題のほうはもう少し具体的で『人間と動物』となっている。何が人間的であり何が動物的かという問いが、コジェーヴとバタイユに始まり、ユクスキュルからハイデガーというドイツ人類学的なテーマを縦糸として編まれていく。だからといって西欧的な哲学の命題にすぎないのかといえば、そうでもない。東洋社会の住人である僕らにとって人間と動物という区分けは違和感はあるかもしれないけれど、日本でも政治的・法的には人間と動物に線引きがなされているわけだし、僕たちの実社会に眼を向ければ人間の権利や尊厳といった観念を考えるには無視できない視点となる。むしろ西欧的な文明によって立つわりにその思考体系を自らのものとし切れないあたりが、日本人の政治・文化全般に屈折をもたらせているんだろう。まあ、僕はそのへんにはあまり関心がないので、読み方は政治史・文化史的というよりも、おのずと精神史的なものになることはあらかじめ断っておく。



02. ユクスキュルの環世界(ウンヴェルト)という概念

 いうまでもないけれど、この本は生物学の話じゃない。熱心な一神教徒でも、いまどき人間と動物を対立するものとして、そのあいだに境界線を主張するのは難しいだろう。人間は他の動物にたいしていかなる序列のなかにもいない。このルネサンス以来の生物学が控えめに予見してきた主張を、現代に決定的な形で定着させたのはユクスキュルの環世界(ウンヴェルト)という概念だ。あらゆる動物がそれぞれに異なる知覚によって行動をし、その行動にはそれぞれに特有の意味がある。ユクスキュルの『生物から見た世界』には様々な魅力的な観想が繰り広げられているけれど、アガンベンも取り上げているダニのエピソードは、ユクスキュルの最も知られた一篇であり、僕も大好きなもののひとつだ。
 


03. ユクスキュルのダニのエピソード

 「この動物には眼がない。見ることも聞くこともできない。だから獲物が接近してくるのを嗅覚だけをたよりに察知する。ほ乳類の皮脂腺からでる酪酸の匂いをシグナルとして、獲物に向かって運任せに落下する。何か温かいものの上に運良く落下することができれば、あとは触覚をたよりに体毛のない箇所を見つけ、動物の皮膚組織に頭を食い込ませる。そしてようやく摂氏37度の液体に吸い付くことができる。」(例によって省略、意訳、以下の引用も同様。)
 


04. 18年間ただただ待ちつづけるダニのあり方

 ダニの世界との関係、つまり環世界は、酪酸の匂いと、37度という温度、そしてほ乳類特有の体表の類型、このたった三つの指標に還元されている。僕たちの環世界がどれほど豊かに見えようが、ダニたちほどの強烈な関係性は望むべくもない。そしてこのダニのエピソードにはもうひとつ重要な逸話が結ばれている。とあるドイツの実験所でダニが18年間(!)絶食したまま飼われていたという。このダニは自らの環世界から切り離され、餌どころか、時間も世界もなく、ただただ待っていたのだ。ユクスキュルは、互いに排他的で交流のない、しかし相互に結合した、無数の知覚世界が存在することを明確に示している。


05. 世界に窮乏する動物と、世界を形成する人間
 

 どの本でもそうだけども、ハイデガーが話に上ってくる段になると、僕は俄然集中力を失ってしまう。それはあまりにもハイデガーの思考様式が僕には共有できないからで、今回はアガンベンがユクスキュルという支点を置いてくれたおかげで、なんとか読み通すことに成功した。ちょっと嬉しい。
さて、ヒトの特殊性を言い立てるのは生物学的には意味がないが、人間について考えるうえでは前提として役立つ。ハイデガーは、世界に窮乏している動物(なんて嫌な表現だろう)と、世界を形成する人間とを区別した。人間が世界を形成する、という考え方は、人間の意識やメディアの問題とも接続している部分がある。これについては後日あらためて考えるとして、ここではアガンベンのすすめにしたがってハイデガーの言い分をもうちょっとだけ引っぱってみる。

 


06. ヒトは人間と動物のあいだを往来している

  ハイデガーは、人間と動物を区別した―――これは論理的にはカテゴリ錯誤だけども、人間と他の種は別々の世界に生きているのだから、区別すること自体は難しくないし、人間性をもった動物というグラデーションを否定するわけでもない―――。ユクスキュルの紹介する実験のひとつに、腹部を切断されて蜜が流れ出しているにもかかわらず蜜を飲み続けるミツバチがいる。この放心というか、朦朧というか、そういった生のあり方をハイデガーは彼自身の、田舎の駅で4時間空虚なまま取り残されてただただ待っている、という「深き倦怠」と結びつける。ただ世界の内に存在するだけの存在として人間―――彼の用語として日本でも有名な「現存在」としての人間―――、これらは動物の置かれた状況と酷似しているのではないか。つまり、ハイデガー(アガンベン?)はヒトは忘我・倦怠というあり方によって人間と動物のあいだを往来していると考えた。
 


07. 人間は「開かれ」を見ることができるか。

 動物は環世界のなかにあって、対象に触発されそれに応じる衝動に心を奪われている。ダニにおいて見たように、多くの動物においてはその衝動自体がその存在の 指標となる。一方で、動物は対象を知覚するという意味で対象へと開かれているともいえる。「動物にとって、存在者は、開かれてはいるが、近づくことができ るものではない。つまり、非関係性のうちに開かれている」。暴論だけれども、人間性とは動物性との葛藤になかにおいて生起する、という主張にはただならぬ 魅力がある。ハイデガーは、人間と動物とのあいだの闘争を通じて、つまり「開かれ」を見通そうというあり方によって、人間が歴史や命運を決定することがで きると信じた。そしてハイデガーの信念が時代錯誤に感じられるのは、いみじくも僕たちが「歴史以降」に生きているからかもしれないのだ。



08. 歴史の終わりの日に現れる動物人たち

 ハイデガーの思弁は、僕にはまるでエジプト神話かなにかのように響く。人間には歴史的使命なんていうものは、ついぞ存在したためしがなかったかのように。と、ここでバタイユの話をしよう。バタイユについてはその師コジェーヴとのあいだで議論が、本書の入口でちょっと触れられているだけのようだが、実は、アガンベンの論はハイデガーという縦糸よりも、人間が人間であるゆえんを不合理性にもとめるバタイユの姿勢が、アガンベンを導いているように見える。
 バタイユの議論の始点は動物人という表象にある。その一例をアガンベンが第1章において詳らかにしている、ミラノのアンブロジアーナ図書館に収められた13世紀のヘブライ語聖書に描かれた細密画、最後の審判の日に行われる宴、そこに集った義人たち。彼らが銘々にかぶった冠の下にあるのは、鷲、牛、獅子、驢馬、豹、猿の頭部である。最後の審判の日に、人間がその動物的な本性と宥和を遂げるかのように、完全なる人間性を体現する義人たちは動物人として描かれているのだ。

 


09. コジェーヴは人間は袋小路に向かっているかのように宣告する

 コジェーヴの講義には上述の動物人のあり方を肯定しているかのような響きがある。
「歴史の終焉に置ける人間の消滅は世界の終末ではない。生物学的な終末ですらない。人間は所与の存在と一致する動物として生き続ける。消滅するのは本来の意味での人間、つまり所与を否定する活動であり、客体に対する主体である。自由かつ歴史的な個人の根絶は、実質的には戦争や革命の消滅であり、哲学の消滅である。人間が自分自身を変革しなくなるや否や、世界と人間の認識の基底にある諸原理を変革する動機もなくなってしまう。だがそれ以外のものすべて、芸術、愛、遊びなど人間を幸福にするものすべては際限なく継続していく。」



10. バタイユは自らの生を足がかりに世界を見ようとする

 しかし、バタイユはコジェーヴのいうところの唯物史観、進歩史観にも通ずる閉じた体系を認めない。
「歴史がこれから完成されていくと言うことはもっともらしい仮説として認めます。しかし、もはや〈行為すべきことを何ひとつ〉持たない者の否定生は意味をなさなくなるのか、それとも〈用途なき否定生〉という状態で存続するのか、そのいずれかを知ることとこそが肝要なのです。私自身がこうした〈用途なき否定生〉に他ならない以上、私の生である開いた傷口はそれ自体で、閉じた体系への反駁なっているのです。」
屁理屈だが、これはとりわけ根本的な屁理屈だ。芸術、愛、遊びを動物の生に送り返してしまうことへの、「私自身の生」による抵抗。人間と動物のあいだの分節の不可能生に言及したのちのアガンベンが、最終章を前にティツィアーノを引いて愛について述べだす下りは、ちょうど第二章のバタイユの論と対称をなしている。


11. いまは歴史以降なのか、終わりの始まりなのか
 

 結局この本では「歴史以降」について、これと言った現実的な提起はなされていない。ただアガンベンの美しい知的振る舞いが見られるだけともいえる。とはいえ、この本には読む価値がある。それはこの人間と動物という奇妙なカテゴライズが、人間という意識の生成するまさに中心にあるということを改めて認識させるものだからだ。僕が先日とりあげたカイヨワの「遊びと人間」も、タイトルは「人間の遊び」ではなく「遊び」と「人間」だ。カイヨワが「遊び」の無為性と創造性を解き明かしたのは、「人間」というあり方を問うためでもある。人間が歴史によって人間となるのであれば、遊びは人間の人間性に寄与しないのだろうか。現代に生きている僕たちにとっても、歴史は常に未完であり、芸術も愛も遊びも、いずれも人間的価値と切り離されているわけではない。ましてや労働も生活もある種の芸術形式化しつつあるのは衆目の一致するところだ。これは歴史の終焉という20世紀の哲人たちの予想は外れて、せいぜい近代的なベクトルが外れてしまっただけだったということなのか。それともやはり僕たちは人間であることをやめようとしているまさにその過程にあるのだろうか。
いずれにせよアガンベンを読んで痛感したことのひとつは、あまり僕には知的な身振りに参加できるセンスがないということだ。20世紀的な主題が古びてしまったわけではないが、現実的なアプローチを見失っていることも確かだ。だからといってアガンベンのように軽やかな身振りでいられる人間はそうはいないのだ。(そしてそうなりたいと思うかどうかも大切な問題だ。)




テキスト:荻野瑞穂