正しい人5月:荻野 瑞穂の『REMIX』著:ローレンス・レッシング

5月
荻野 瑞穂 REMIX ハイブリッド経済で栄える文化と商業のあり方 著:ローレンス・レッシング
––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––
著:ローレンス・レッシグ
訳:山形浩生
発行:株式会社翔泳社(
2010年
原題:Remix: Making Art and Commerce Thrive in the Hybrid Economy















01.
ローレンス・レッシグ 

 ローレンス・レッシグはアメリカのサイバー法の第一人者であり、邦訳されている四冊をはじめ、ネットにおける著作権について多くの議論を提起してきた人だ。著作権といってもレッシグは技術や法的な議論を越えたところに照準を合わせている。彼が一貫して提起しているのは、モノや空間や情報といったあらゆるリソースは、いったい誰のためにどのように使われるべきか、という問題だ。これは、あるリソースを政府か市場のどちらがコントロールすべきなのか、ということじゃない。そのリソースはそもそもコントロールされるべきなのかフリーにしておくべきなのかという問題だ。
 


02. 僕たちを制限するのは法律だけじゃない 

 言うまでもないことだけど、僕たちの持っている権利は完璧じゃない。それは各人の権利を保証したり制限したりする法律に抜け道があるからだけじゃない。そもそも法律なんて、その気になれば破ることだってできる。そうじゃなくて、法律以外にも僕たちの行動はさまざまな形で制限されているからだ。あるリソースを所持したり使用することが法で認められているとしても、社会における言外の規範やマーケットでの価格が、僕たちの行動を思いとどまらせたり、逆に促したりする。そうした有形無形の制限のなかでもレッシグが注目したのはアーキテクチャによる制約だ。
 


03. アーキテクチャには逆らえない
 

 アーキテクチャは本来建築学の分野で構造とか様式のような意味を指しているけども、ちょうどそれが僕たちの生活行動を形式化しているように、社会のあらゆる物理的ないし技術的なアーキテクチャというのも僕たちの行動をコントロールしている。たとえば道路はその平坦さや幅が自動車を走りやすくし、縁石や中央分離帯がその進行を制御している。アーキテクチャによる制約はあまりに自明なのでついつい忘れがちなのだけども、意識されないという特質こそが重要だともいえる。もし自動車の自動運転装置が普及すれば、事故は減るだろう。そして僕たちの自由も減るだろう。つまり僕たちは誰に命令されることもなく、そして多くの場合は不自由さを感じることもなくそのアーキテクチャに従ってしまう。


04. これは誰のものなのか
 

 とあるテクストの販路が途絶えて手に入らない。そこで僕は友達に頼んでコピーを作ってもらって何度か読みかえした。商業誌のコピーを取ることは著作権法違反じゃない? 雑誌を勝手に分割して欲しい部分だけを取り出すことも違法じゃない? そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。もちろん法律もあるし、いろんな判例もあるだろう。でもそんなことは知ったことじゃない。コンテンツを売る権利、管理する権利、読む権利、などなどの境界線はグレーゾーンになっている。著作権者はこいつは僕のテクストなんかじゃないと言うかもしれないけど、でもこいつは僕のテクストでもあるんだ。


05. 不自由さが自由を保証する

 本というアーキテクチャは、作者のアイデアをまとまりとして提示するので、読者が編集や加筆するのは難しい。付箋を貼ったり、線を引いたりしても私的な枠を超えることはない。でも本というアーキテクチャは、携帯や複製などなどの行為も誘導する。耳に聞いた話を正確に写し取って人に伝えることに比べれば、本をコピーしたりどこかへ持っていくのはとても簡単だ。印刷されたものは、すべて印刷される可能性を持っている。実際のところ、僕が作者の権利を侵害していたとしても、けっきょくのところ物理的に管理しようがないからなし崩しだ。物理的なアーキテクチャが持つ不自由さは、僕たちの享受してきた自由そのものだ。僕たちの行為を可能にするのもアーキテクチャだし、それを制限するのもアーキテクチャだ。そして、僕たちの行為を制限しようとするもの自体もまたアーキテクチャによって制限されている。
 


06. インターネットはオープンなプラットフォームだ、いまのところ
 

 社会はずっと不完全だった。それは物理空間のアーキテクチャが自然の法則によって制約されるからだ。だから、これは聞き飽きたことかもしれないけれど、インターネットの普及によって局所的とはいえ物理層の制限が撤廃されたことは、やはりとても大きな出来事なんだ。道路、電気、電話、テレビ、ラジオ、さまざまな通信やプラットフォームと比較しても、インターネットはたぐいまれなオープンな性質を持ったアーキテクチャだ。情報化されたモノは無限に複製され流通していく。そう、僕たちはどんどん自由になっている。でもこの流れはこれからも確定してるってわけじゃないのかもしれない。

 

07. サイバー空間は完全なコントロールを可能にする
 

 サイバー空間が自由に感じられるとすれば、それはインターネットがニュートラルなネットワークとして共同設計されてきたからに他ならない。言わば世界最初のネチズンたちは、驚くべき民主主義精神を発揮して、インターネットのコードを共有財産として発展させてきたんだ。逆に言えば、コード層を作り替えることで、サイバー空間では僕たちが何をできて何をできないようにするかをコントロールできる。肝心なことは、サイバー空間で匿名性と自由を生み出したのと同じコードが、完全なコントロールを実現するアーキテクチャになりうるということだ。実際、レッシグが最初の著書「CODE」を発表した2000年に比べれば、インターネットは、かつてのハッカーたちを中心とした多対多のネットワークから、企業と消費者、政府と市民という構造へとシフトしつつある。
 


08. コントロールが不完全であることに民主主義の価値がある
 

 僕たちは自分のものと他人のものの区別をいともたやすく行う。でもそれを明確にしようとすればすごく難しい。友人や家族の間で共有されているものや、公共施設や自然環境などを、僕たちはどこからどこまでを占有していいのか。パブリックとプライベートの区別が曖昧だから僕たちは自由にどこへでも行き来できるし、気に入らないことは批判することもできる。すべての人々が財産権やプライバシーを盾に公共の通行を妨げたり言論を拒否することを許すならば国家は成り立たない。でも公共の価値を盾に言論や財産が侵害されるような国家は民主主義とはいえない。だから、たいていの民主主義社会ではフェアユースなどの法律があって、コントロールが完全になりすぎないような措置が講じられている。ないしは日本のように曖昧な国家であれば、その辺は都合良く曖昧のままにされている。コントロールが不完全であることに重要な民主主義の価値がある。これは的を得た指摘だ。だって独裁国家は市民の権利をないがしろにしているのと同時に、特定の権利が侵害されることのないように徹底的にコントロールすることで成り立っている管理社会なのだから。


09. 口承文化とリミックス
 

 レッシグは、ロンドンのホワイトキューブ・ギャラリーを訪ね、キャンディス・ブレイツによるジョン・レノンのファンを被写体にしたインスタレーション作品を観たときのことを書いている。商業文化のなかで消費する側に焦点を当てたこの作品に興味を持ったレッシグは、ブレイツにその着想のもとを尋ねている。そしてブレイツは彼女の故郷であるアフリカの口承文化について説明する。「アフリカでは文字文化がないので、物語や歴史はパフォーマーと観衆との間で共有される。そして次々に各種のバージョンが生まれ、バージョンごとに観客からの貢献やフィードバックが織り込まれて前のバージョンを超える。これはコピーや剽窃とは思われず、文化が展開する自然な方法として受け入れられていた。新しいレイヤーが重ねられるに従い、物語や歌は豊かになった。」そのとおり、あらゆる芸術はリミックスでできている。あらゆる創造的な発明や文化はリミックスが豊かな地で育まれる。
 


10. リード/ライト文化とリードオンリー文化
 

 もう少しだけレッシグの敷いたレールを走ってみよう。彼はハッカーたちの言い方に従ってリード/ライト(RW)文化とリードオンリー(RO)文化とを対置する。RW文化は先のブレイツの述べた口承文化に相当するもので、受け手が読むと同時に何か変更を加え書き直すという近代以前まで主流だったアマチュアリズムによる消費形式を示している。それにたいしてRO文化は同じくブレイツのいう文字文化に相当するもので、20世紀に成し遂げられたようなプロ化したポップカルチャーに代表される消費形式のことだ。もちろんこれはリミックスを肯定する文化と、権利のコントロールを肯定する文化という対比でもある。レッシグはRO文化黎明期にあった1906年のアメリカでの著作権に関する面白い証言を紹介している。ジョン・フィリップ・スーザという作曲家は、無断で(!)曲を販売しているレコード会社を制限する法律を作るように議会図書館にて要求した。「子供は音楽の実践に無関心になる。というのも音楽が学習の苦労も応用も、そして技術を身につけるゆっくりとしたプロセスなしに聴けるようになれば、アマチュア主義は後退するしかなく、残るのは機械的装置とプロの音楽家のみになる。」
 


11. プロセスが必要なくなれば誰も習熟しない?
 

 自作農や自営業、それにアマチュアを賛美する思想はいまでも失われてしまったわけじゃないけども、それらの存在はロマンティシズムという言葉同様に、懐古主義的なものと見られている。でもスーザならずとも、受け手が文化の実践から後退し消費に専念するようになれば、いろいろ懸念されもするだろう。もし人間が歌を歌わない生き物ならば、ある歌手が史上最高のプロフェッショナルであろうとも、その曲をダウンロードして聴きたいとは思わないだろうから。彼が言ったように、コンテンツを楽しむためにプロセスを経る必要がなくなると人は学ぶことをやめる、とするならば消費を旨とするRO文化がRW文化に道を譲る可能性はこれからもずっとないだろう。でもこの意見ではもうひとつ重要なことが言及されている。コストの問題だ。労なく聴けるならその方がよい、という理屈は、労なく作れるならその方がよい、という理屈と表裏の関係だ。
 


12. デジタルメディアは文化を民主的な形に引き戻す
 

 デジタルメディアは創作コストを劇的に引き下げる。だからコンテンツをリミックスしたりマッシュアップしたりして編集することは――たとえ非合法でも――、いままで以上に当たり前になるだろう。なぜって、文化というアーキテクチャは本来そういう風にできているからだ。それらがこれからの商業文化の主流になるという予測は大げさだろうが、しかしいくらかは、かつて人々が歌い継いだり、語り継いできたように、もっと民主的な形へと文化を引き戻す、というのはありうることだ。この希望的観測は、レッシグに先立って数多くの、とくにメディア論的な立場の人々によって述べられてきたものだ。レッシグはRW文化が果たした役割を賞賛し、RO文化によるコントロールから守ろうとする。その趣旨には僕も大いに賛成する。だけども、僕の疑問はこうだ。もし仮に政府と企業がアーキテクチャにたいして不完全なコントロールを維持し、法律がそのような自由を保証してくれるとして、はたしてRW文化がかつて(?)のように復権するなんてことがありうるのだろうか。僕は半分その通りだし、半分は違うんじゃないかと考えている。
 


13. そういえばリミックスってもうちょっとアートぽかった気がする
 

 デジタルメディアによって創作コストは安くなったけども、再創作のコストはさらに安くなった。ほとんどタダみたいなもんだ。そしてそれはもうほとんど創作と言えるようなもんじゃない。印刷技術もなかった頃に遠い異国の地に渡り見聞きした物語を母国に伝えれば、それは立派な創作と言えた。そこには様々な物理層のアーキテクチャが作り出す障壁があったからだ。不自由さは、自由の担保でもあったが同時に創造性の担保でもあった。労力や技術によって芸術性を規定する見方には反対する人もいるだろうし、もちろん一概には言えることじゃない。でもこの見方は、非専門家の立場にとって、芸術性の保証として意味がある。80年代のシミュレーショニズムはアートらしかったけども、いまのリミックス・アートの類いがどうにも胡散臭く感じられるのは僕だけじゃないと思う。リミックスするにも相応の技術や知識、労力が必要とされた時は、その障壁が翻訳に芸術性を与えていたっていう部分は否定できない。たとえ彼女ら彼らが芸術性の否定をお題目に掲げていたとしても、だ。
 


14. で、結局これは誰のものなのか
 

 誰が作品の中身や意味をコントロールするのか。この疑問が生じたのはルネサンス~近代以降のことで、それ以前は疑いなく作品をどのように扱うかは所有者の権利だった。グーテンベルグの印刷機やエジソンの蓄音機、あるいはダゲレオタイプ、これらのメディアの発達とともに情報化したモノは、所有者という立場を曖昧にしてしまった。だから法や社会は作者や個性という規範を生み出し、それを尊重することに決めた。ここでも戦いのほとんどは著作権者や企業といった制作者サイドで行われた。デジタルメディアでもこの事情は変わらない。音源をリミックスしたり、誰かの作品をアプロプリエーションしたり、ハイパーリンクだらけのテクストを編集したり…、コントロールかフリーかという綱引きは、制作者と消費者の問題じゃなくて、けっきょく制作者同士の綱引きだ。
 


15. みながクリエイティブな世界なんてありえない
 

 You Tubeの設立者の一人であるチャド・ハーリーは、この史上かつてないRW文化の巨大なアーカイブにおいて、コンテンツを実際に作成しているのは2、3%の人たちにすぎないと証言している。さらに投稿の大半を行う積極的参加者は少数であり1%にも満たない。そしてどのソーシャル・メディアでもたいていこの割合は変わらないんだ。(もちろんそれでもびっくりするような膨大な人数なんだけれども。)一昔、とある有名なアーティストが「誰もがアーティストになれる」と言ったけども、「誰もがアーティストになる」わけじゃない。消費者が自分の持ち物である音楽や映像を友達とシェアできないことに不満を感じるのは、いつのまにか僕たちが所有者から条件付きの賃借人にされてしまったからであって、自由に再創作ができないからじゃない。
 


16. 世界はとても常識的にできている
 

 管理社会なんて物騒な例えを出したけれども、世界がジョージ・オーウェルの『1984年』さながらの管理されたアーキテクチャへとシフトしているわけじゃないし、ネット検閲のような人的コントロールは海の水を柄杓で汲み干すようなものでコストに見合わない。それに本やインターネットであれ、あるいは社会であれ、プラットフォームはなんであれコントロールされるべきじゃないと考えるのは、一部の専門的な人と若者の半分と若者びいきだけだ。アップルやFacebookが提供しているような閉じられたサイバー空間というのは、多くのユーザーに好まれているし、自由でウイルスの飛び交う気の休まらない世界よりもずっと安全だと思われている。ウィルスや犯罪行為は無論、そしてデマやポルノの少しも規制された方が良いと思う人は少なくないし、コントロールが必要だとしても、ある程度自由にやらせておくことに価値があると認める人も多い。つまり世界はとても常識的なんだ。
 


17. デジタルメディアは逆戻りできないだろう、多分
 

 法はいまや非常識なんじゃないか、権益を確立した権利者は新参者を不当に圧迫しているんじゃないか、こういった議論はいちいちもっともだ。だからレッシグが、世界に不完全さを残すための「規制」が必要だと主張したことは画期的だった。たしかにデジタルメディアにおいては、コードは完全なコントロールが可能だ。でも僕はもう少し楽観している。その根拠を現状に探すことは難しいけれども、少し離れて見れば結果は明らかだと思うからだ。僕が言いたいのは、複製ができないデジタルメディアや共有が不可能なネットワークなどというものはほとんど字義矛盾だということだ。インターネットはただの通信インフラではないし、下手な規制はイノベーションが廃れるどころか、インターネットそのものを殺してしまう。デジタルメディアによって共有と公共が増加する分、個人の権利とプライバシーは減少する。これは規制がどうとかという次元でなく、技術のもたらす当然の帰結として決定づけられている方向性だ。だから無駄な抵抗はいずれ潰える。僕の生きている環境や人生の短さを考慮に入れないなら、だけども。
 


18. アーキテクチャの変化の最後に僕ら自身が変わるとき
 

 紙の書籍などのアナログメディアは複製や改変にそれなりのコストが必要だった。そしてそういったコストの多くが取っ払われた。この大きな変化も制作方法に与える直接の影響は、驚くほど小さいかもしれない。もちろんアーキテクチャの変化は重要だし、活版印刷ができなければ叙事詩から大衆小説への飛躍はなかっただろう。でもドストエフスキーが新聞に連載したからといって、物語る行為自体が変化したわけじゃない。だから、これから小説がハイパー小説になったりなんてこともきっとない。新しいジャンルの小説が出たら、そういう風に言う人はきっといるだろうけど、それでもそれはハイパーじゃない。でも決定的な方向性の変化は既に起こっている。書き方が変わり読み方も変わり、その価値判断は広く開かれている。職能的に固定化する方向性で動いていた世界が逆回転して、見えにくかった制作スタンスのグラデーションの濃淡が、細かいところまで目につくようになる。そうしてデジタルメディアは、潜在的な遊びの参加者であるアマチュアの参入機会を増やすだろう。それは文化をいくらかは豊かにする。技術やそれを追いかける資本や制度の変化は問題じゃないし、変化にどう対処すればいいかもたいした問題じゃない。アーキテクチャの変化の最後に僕ら自身が変わるとき、世界を見る僕らの目はどんな目になっているのか、きっとそこんとこを見越さなくっちゃいけないんだ。それってとてもエキサイティングな機会じゃないか。





テキスト:荻野瑞穂