正しい人 7月 : 荻野 瑞穂の『メディア論』著:マーシャル・マクルーハン



7月
荻野 瑞穂 メディア論 著:マーシャル・マクルーハン
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『メディア論―人間の拡張の諸相』
著:マーシャル・マクルーハン
訳:栗原 裕、河本 仲聖 
発行:みすず書房(1987年)

原題:Understanding Media: the Extensions of Man




















01. もっとも分かりやすいメディア論

 先日、レッシグについて述べたところで文字文化と口誦文化の出会いの話になった。その箇所を書いていてマーシャル・マクルーハンの『グーテンベルグの銀河系』、そしてそれをさらに掘り下げて書かれた『メディア論』を思い出したので、再読してみた。
マクルーハンの電子メディアと機械メディアの交差を予見する『メディア論』はだいたいこんな調子で始まる。「機械の時代に僕たちは身体を空間に拡張していた。現在、僕たちはその中枢神経組織自体を地球規模で拡張してしまっていて、空間も時間もなくなってしまった。」
 いまさら僕がこの本について何か解釈してみせるのは、あまりにも多くの人々の手垢がつきすぎていてちょっと躊躇われる。躊躇われるけども、僕たちが文字と口誦、そしてアナログとデジタルの端境期、つまり機械の時代が終わりを告げ電子の時代へと確実に移り変わってしまった最初の時代にいることは間違いのないことなんだから、彼の先見に改めて触れてみれば何かしらの収穫があるはずだ。そして何より、マクルーハンほどメディアについて分かりやすく書いた人はいない、と思うわけで。


02. メディアとは何か

 メディアというものについて、マクルーハンはそれほど難しいことは言ってない。明示しているのは、僕の理解するところ次のふたつだ。
 ひとつは、メディアは僕たちの身体や機能が拡張され外化されたものであり、いわば身体そのものだということ。たとえば、足と松葉杖、そして車輪が同一の身体機能の延長上にあるように、文字や映像も会話や記憶の拡張されたものだ。
 もうひとつはメディアの意味はその内容や機能ではなく、社会的に引き起こす変化の方にあるということ。つまりメディアが僕たちをどのように作りかえ、その結果、拡張された僕たちの集合である社会をどのように変えてしまうのか、それこそがメディアの持つ意味だということだ。


03. つまるところ、メディアは僕たち自身だ

 メディア、つまり僕たち自身の拡張された身体によって、モノを見ること、使うこと、そして知覚することは、それらを身体そのものとすることになる。インディアンはカヌーの、ドライバーは自動車の、画家は絵筆の一部だ。僕たちは知覚することによって、世界を自分のうちに移し変えることができる。この転換は僕たちの本質的な喜びであり、目や耳を絶え間なく使う理由であり、経験した世界を言葉にせずにはいられない理由でもある。
 メディアが身体の拡張であれば当然のことだが、メディアの内容はメディアとなる。本の内容は文字であり、文字の内容は言葉であるように、ある枠組みはある枠組みのなかにある…。この入れ子構造はメディアに限らず、僕たちの脳みそが物事を知覚する際の方法であり、そして自然の法則でもある。自然と異なるのは、その入れ子の中身が最終的に自分自身だということにつきる。
 メディアの持つこのふたつの性質―それは僕たち自身であり、本質的な内容がない―ゆえに、僕たちはメディアという存在について無自覚になる。だから、もしメディアを理解しようとするならば、マクルーハンに倣って、メディア自体を全体的な視点から捉えてみる努力が必要になる。


04. 言葉によって拡張された人間

 僕たちのもっとも原初的で大切なメディアのひとつである「言葉」について考えてみよう。話される言葉は抽象的な世界に僕たちを引っ張り上げたけども、書かれる言葉は僕たちの知覚を文字通り分離した。そしてその速度を飛躍的に増大させたのが印刷される言葉だった。
 話される言葉という拡張が生じたとき、僕たち人間は、広大な実在世界から切り離されただろう。言葉がなければ僕たちの知覚は注意を向ける対象に巻き込まれたままだったにちがいない。車輪が僕たちの身体を拡張し、迅速にしたけども、関与の度合いはそれに応じて減少する。同じことがここでも起こっている。とりわけ、画一性・反復性をもたらしたグーテンベルグの印刷術以降、その傾向は決定的になった。


05. 文字文化人間の作り上げた世界

 メディアによって拡張された僕たちは、世界との関与を減少させる。これはとても大事な点だ。逆説的に聞こえるかもしれないが、僕たちの身体の拡張は、すべてバランスを取ろうとして生じる。人生での諸状況はもちろん、スポーツや芸術のような人為的に作り出された状況であっても、過度の刺激が身体に加えられるとき、中枢神経組織はその受容器官を切断することによって自己防衛する。
 道路と車輪が土地との関わりのなかで果たした役割と同じことを、印刷される言葉は知覚にたいして引き起こした。文字文化に属する人間は、反応と切り離されたところで行為をなす力を獲得する。近代以降の人間が社会の改造を感情にとらわれない態度で成し遂げたとするなら、それは文字文化のなせるわざなんだ。マクルーハンのたとえを借りれば、外科医が外科手術に人間的に巻き込まれてしまったらお手上げ、というわけだ。
 マクルーハンは、文字文化以前の触覚的・統合的な感覚世界から、徐々に文字文化以降の世界を概念化し構造化してきた機械時代に移行してきたと考えた。そして彼は、いまだ機械の時代にいると考える人々に、電磁の時代の到来を告げ、警鐘を鳴らした。でも、いまの僕たちは、ひと昔前のように超然とした態度をもって社会を革新できるとは考えないし、コントロールできるとも思わない。それは文字文化的な思考方法が衰退していることときっと関係がある。


06. 肝心の電気の時代はどうなったのか

 この本が書かれたのが1960年頃だから、マクルーハンはもっぱらテレビや電信などを対象として電子メディアを思索したわけだけど、その射程が正確にとらえていたのは、おそらく今日のデジタルメディアの姿だった。デジタル技術の一般化は意識そのもののプロセスを世界規模で拡張し、いまや集合的意識という状況が形作られていることは、僕たちもはっきりと認識しつつある。そういう意味ではデジタルメディアは、電子メディアの真打ちだといえるだろう。
 機械技術が特定の用途に適した形で作られていたのに対して、電気技術は情報を自由に載せることのできるアーキテクチャを作り出した。デジタル技術はさらにそれを押し進めて、アーキテクチャ自体に可変性を付け加えた。ちょっと長くなるけども、マクルーハンのニュアンスはほとんど要約できなそうなんで、以下からしばらく、ほとんどそのままの表現を借用しつつ、マクルーハンの電子メディア論をなぞってみる。


07.  電子メディアによって僕たちは自分の行動の結果に深く参与するようになる

 電子メディアは印刷などの機械メディアよりもずっと有機的で神経的だ。電子メディアにより中枢神経が拡張され露出されるとき、ショックで死にたくなければそれを麻痺させなくてはならない。したがって電子メディアの時代は無意識と無関心の時代となる。けれどもそれは無意識を意識する初めての時代でもある。中枢神経が麻痺させられたとき、かつて意識が担っていた仕事は身体生活に移され、その結果として僕たちはメディアが身体の拡張であることを自覚する。
 無意識が目に見えるに伴い、社会意識を培うようになる。電子の時代に僕たちは全人類を自分の皮膚としてまとっている。電子の時代に僕たちの中枢神経が技術的に拡張すると、人類全体を自身のうちに巻き込み同化するまでになっているから、僕たちは不可避的に自身の行動の結果に深く参与しないわけにはいかない。文字文化人が超然とした役割をとることはもはや不可能になる。 
 電子の時代に至って僕たち人間は、ますます情報の形式に移し替えられ、技術による意識の拡張を目指している。このことが日々、知が増えていると言われるとき、意味していることだ。僕たちは、拡張された神経組織のなかに自分の身体を組み込むことで、ひとつの動的状態を打ち立てた。


08. 情報水準の上昇はあらゆるものを商品化する

 あらゆる機械、衣服、道具、都市など、これまで、手、足、体温調節機能の拡張にすぎなかった技術が何かもかも情報システムに移し替えられる。電子メディアはいまや、身体の外に脳を持ち神経を備えた生命体に相応しい。
 人間は電子の技術にもかつての諸技術に対してそうであったように、自動制御装置として忠実に仕えなくてはならない。しかし電子メディアは全体的で包括的だから、個人の自覚に留まらず、外部との調和や良心が必要になる。だが電子メディアは光の速度であらゆるものを備蓄し転換することが可能になる。
 実在世界で情報水準が上がると、あらゆるものが、燃料や建材となる。同様に、電子メディアでは「情報検索」と呼ばれる有機的パターンによって、あらゆる個体材が商品となる。このメディアの元では、人間のすること全体が学ぶことと知ることになる。あらゆる雇用が学習となり、あらゆる富が情報の移動から引き出される。
 人間は長期間にわたる革命によって、自然を人工に移し替えようとつとめてきた。人間はそれを「知識の応用」と呼んできた。応用とは、一種の素材が別のものに移し替えられること、持ち込まれることを意味する。電子メディアはこれと同じことを大規模におこなう。都市というものが遊牧民をより人工的な形態に作り替える作業であったように、電子メディアは僕たちの生活全体を情報という精神的形態に移し替える作業であり、地球全体を単一の意識に仕立て上げる作業なんだ。


09. 電気の時代は文字文化以前へと回帰するのか

 ちょっと大仰だけど、感触は伝わっただろうか。触知的・聴覚的な口誦文化、機械的・視覚的な文字文化の段階を経て、電子メディア文化によってあらたな経験様式が到来する。マクルーハンは、電子メディアが文字文化が引き起こしてきた感覚生活の断片化のプロセスを逆転させると考えた。
 とにかくマクルーハンの予言は、恐ろしく正確だった。僕たちは、自分たちの周りを見回してマクルーハンの観測が正しかったことは理解できる。つまり、これだけ正確だったのは『メディア論』が予言ではなかったからだ。エジソンのような実業科学者が電子時代のインフラを整備し始めてからマクルーハンまで一世紀が経過しているのだし、彼は電子の時代を観察する数々の研究をとりまとめ、そこから必然的に導かれた仮説を打ち出したのだ。(だから彼を何かよもやまの話をしている人のように言うのはいい加減やめにしよう。)


10. メディアはいつも変わり続ける

 電子の時代にもたらされるこの集合的意識ともいうべき状態は、言語以前の状況に似ているかもしれない。これは『メディア論』のよく知られた、そして分かりやすい図式だ。でもこの解釈をあまり律儀に真に受けると、ちょっとまずい。なぜなら、メディアはつねに質の変化をともなうからだ。絵画が世界の描写から思考の構成へと役割を変えてきたように、あらゆるメディアは変質する。メディアの生態系は相互に作用しあいとても複雑にできているからだ。
 オオカミが人間の生態系において害獣でありながら、広範な自然環境において植生を維持する生態系に所属する動物でもあるように、メディアは環境、時代、他のメディアとの相互作用によって、その役割を大きく変える。メディアを生態系として捉える視点が欠けたメディア論なんて何のリテラシーとも言えない。
 たとえば、アナログ性を強く表していたキーボードが縮小していることは、機械技術の名残が縮小していることと無関係じゃない。でもよくよく観てみれば、そこには違う流れも見えてくる。無線化や小型化、タッチパネル、モーションキャプチャといった技術は、ユーザビリティやモビリティが高度化をうながし、電子メディアのもたらす知覚はより身体化、個別化している。つまり、分断から統合へというという単純な図式では説明できない流れが見える。
 少なくとも僕にとって過去のメディアの変遷を学ぶ必要性は、心を落ち着けて周りの世界を見回すためにある。マクルーハンのメディア論の見習うべき知性は、その明晰さだけじゃなく、柔軟さにも多くを負っている。


11.  もう僕たちの世界は変換点を超えている

 触覚が統合的な生存に必要なことに、もう僕たちは気づいている。(ところでマクルーハンは他ならぬ「数」が触覚の拡張であるというユニークで示唆的な論考も載せている。)機械技術が僕たちの身体的諸機能を拡張し分離してしまったいま、僕たちはほとんど何も自分自身の手に触れることが無くなってしまった。だから、技術と経験の共通感覚が必要だという気持ちを持つようになった。ちょうどアップルの直感的インターフェースが、僕たちの暮らす環境や物理の経験と結びつくことによって支持を受けたように。世界規模の断片化を達成してしまったのだから、世界規模の統合が求められるのは自然な流れだ。
 マクルーハンは、システムが突然別のものに変わってしまう「変換点」というものに関心を示していた。(だから彼は同じメディアの話をしているのに、突然違う視点から語りだしているように受け取られたりするのだ。)彼は道路が変換点を超えたあと、田園は労働の中心ではなくなり、都市は娯楽の中心ではなくなるとした。
 デジタルメディアが、アナログメディア、つまり機械よりも高精細・高密度な情報を含むようになったどこかの時点で、バーチャル・リアリティの世界は、リアルの領域へとすっかり突き抜けてしまった。ちょうど不気味の谷を通り越して疑似人間が人間に見える瞬間に立ち会ったように。液晶テレビがブラウン管テレビにとって変わっても、VHSテープがDVDにとって変っても、コンテンツはおろか、受容形式にも何の変化も及ぼしていないんじゃないか。でも、それは本当だろうか。デジタル技術の描写力がアナログメディアを超えるということは、その「変換点」に達したと、僕にはそう見える。この変換は、原初的なデジタルメディアともいうべきテクストが印刷技術を経て、ついに到達した、そういう大きな到達点なのではないか。


12. デジタルメディアは世界をどう変えるのか

 画像や書籍などのデジタルアーカイブは、デジタルメディアが何を意味しているのかを端的に示している。
 オリジナル資料は劣化するし、保存や復元にも限度があるのにたいして、デジタル資料は事実上劣化しない。そのうえ、再現・蓄積される絵画や書籍は、オリジナル資料よりもずっと細部を見ることが出来るし、地理や時間的制限を超えて共有することが可能だ。つまりデジタル技術はオリジナル資料の「劣化しないコピー」などではなく、その強度と活力に関していえばオリジナル以上の存在だともいえる。たしかにオリジナル資料は無限の情報を持ってはいるのだが、作者や受容者など、あらゆる関わりを持つ行為者の知覚レベルにおいて、それらの情報取得力には物理的な限界が存在し、デジタル技術の閥値は物理世界のすでにそれよりも幅広い。僕たち人間という地平においては、オリジナル資料よりも情報の方がリアリティの強さで勝っているわけだ。(念のため断っておくと、以上は一般論であって、厳密な意味でのリアリティについて言及してるわけじゃない。)
 20世紀末にはデジタルメディアにたいしての反射として、やたらと情報の多量化・高速化の何とかがどうとかと言われていた。実際には、口誦文化やテレビ文化に代表される参加の余地が多い世界は、インターネットの黎明期にそのピークを迎えたけれども、その流れは変換点を迎えて変質しつつある。まるで2008年をピークにWikipediaの編集量が減少に転じたように、高精細の情報を前にしたとき、僕たちはそこに何かを投影したり語り合う必要性を感じなくなるかもしれない。
 デジタルメディアは文化を民主的な形へと引き戻す一方で、だんだんとアーキテクチャのコントロールを強化して僕たちの自由を奪う。レッシグはコード論でデジタルメディアの両義性をこう分析した。おそらくその通りだろう。でもこれでは結論としてはあまりに狭いし、そのうえ腹立たしい。僕はどうしてもその先が知りたい。


13. そして僕たちはどう変わるのか

 僕はまだ結論らしいものは持ってないのだけど、せっかくだからもう少しだけ拙い思考を続けよう。僕たちがメディアを考察するときには、その性質に目を向けなきゃいけない。たとえば、僕がいまタイピングしているときの沈黙とその後に訪れる神経質な速度、友人と会話するときのポンポンとした軽妙なリズム、ねっとりとした油絵具がキャンバスの上で固まるまでの時間、エトセトラ。それぞれのメディアにはそれぞれの密度、速度、粘度など、もろもろの性質がそなわってある。
 マクルーハンは高密度(ホット)か低密度(クール)かとか、透過光(放射する光)か反射光(環境を包囲する光)か、あるいは視覚的か聴覚的かなど、さまざまな対比を駆使してメディアの性質を探求した。デジタルメディアのどのような性質がとくに目立っているかは、現時点でもいくらかの方向性を知ることができる。デジタル技術は音声も映像もアナログ技術の機器よりも総じて、品質、携帯性、保存性を高め、また可塑的にした。けれども消費者は、デジタル音声に関しては、デジタルステレオセットを購入してデジタル音声のもつ現前性を最大限に活用しようというよりも、むしろスマートフォンで音楽を聞くように、その身軽さを好んでいる。一方で、デジタル映像に関しては反射光を利用する電子ペーパーもあるけれども、より現前性の強い透過光を利用するモニターが大勢を占め、高密度と携帯性を併せ持つものを指向している。
 僕が思うに、デジタルメディアの変換点を理解するキーは、密度と、そして速度にある。携帯性を増すということは、より身体へ近づくことを意味しているし、僕たちの知覚にたいするレスポンス速度をあげる。
 デジタルメディアが、より高精細・高速になるに従い、僕たちはこのメディアを画家にとっての絵筆とはまったく違ったものとして受け取るようになる。情報化を促すメディアの最たる点は、思考速度とメディアの速度が一致することにある。さまざまな言葉や行為が僕のなかに流れ込むなかで僕の思考というものはできあがっている。同じようにデジタルメディアというものは常時変化にさらされる性質を持っている。もちろんデジタルメディアはスピードアップだけではなく大量かつ微細な遅延もまた含んでいるのだけれでも、それらは動画のコマ送りのように連続したものとして受け取られ、僕らは気がつきもしないだろう。


14. 僕たちには、いや、僕にはずっと思考が必要だ

 メディアが知覚することと表すことのゼロ距離を指向しているとして、メディアの速度が人間の電気的な速度と同一か、それよりも速くなってしまったとき、僕たちはその変換点をどのように受け取るのだろう。
 僕たち人間の知覚においては、現在などというものは存在せず、つねに運動として流れのなかで知覚される「いま」だけが存在する。意識の瞬間は、反射だ。そのまったく逆、意識の断片と継続こそが、思考だ。僕たちは思考することという遅延性を持っている。もし世界が車や飛行機のような高速な移動手段によって狭くなり、情報機器によって世界中の物事が時間も距離も関係なく一斉に見られるとき、つまり、僕たちの体が巨大になり自分の足がどこにあるか分からず、その目がつねに見開かれ刺激に晒されていると感ぜられるならば、僕たちにとって――僕たちが少なくとも動物として存続するために――必要なのは、それに見合った長大な意識に他ならない。よって、見ることと表すことの同時性とは、逆に見ることを意識することの速度まで引き摺り下ろすような遅延性のことである。
 シャコが僕たち人間の10倍におよぶ10万色を識別することができ、さらには僕たちが知覚できない偏光を知覚することができるように、メディアが拡張されるということは、僕たちの能力が外在化されるということでもある。シャコは来るべき世界に僕たちが望んでいるように、複雑化し拡張された感覚器を持つことによって、多くの判断を受容体レベルに依託し、事物を脳で処理する必要がない。(うらやましいことに精神に掛かる負荷はおおいに軽減されていることだろう。)判断はすべてメディアがもたらしてくれる、すなわち反射が代理するのであり、脳が外在化されれば必然的に僕たちは考えるすべが奪われる。
 デジタルメディアは意識が一定に留まることをゆるさないだろう。だとすれば、これはすでにマクルーハンが予言したクールな(低密度で参加を促すような)電子メディアじゃない。


15. 真剣な芸術家

 マクルーハンは「真剣な芸術家だけが、技術に遭遇しても無事でいられる唯一の人間」だと言った。それは現実の芸術家像とは食い違っているかもしれないが、それでも「見えないものを見えるようにする芸術家」という永々と受け継がれてきた芸術家の自己意識と驚くほどフィットしているのもたしかだ。知覚の変化を意識することに熟練することは、新しいメディアによって自動化した人間を解放するただひとつの手段なのだ。
 メディアによって思考することが芸術において果たす役割を正しく認識するならば、芸術家はつねにメディアによって思考するすべ―メディアを絵の具として描く方法―を呈示しなくてはならない。目の拡張はスピードアップであり、身体の拡張もまたスピードアップである。しかし意識の拡張は世界の遅延である。したがって意識の拡張に関わる、真の意味で概念的な企てを持つ芸術のみが現代の重要な芸術である。僕たちはそこでバランスを取る、あるいは千切れるのだ。そこでは異なった二つの戦略が必要となる。反射能力を鍛えることと、冗長な意識を獲得すること。前者は僕たち人の生理的な適応として―あるいは十分恐れられるべき想定としては「退化」として―表れるものであり、後者は人の意識の拡張として、芸術形式となりうるメディアに習熟することになるだろう。肝心な後者についてだが、暫定的ながら僕の意見を書いておこう。具体的なひとつの方法としては、字を書くことや手で描くことのように旧来の低速を身上とする芸術形式を利用することだろう。より積極的で困難なもうひとつの方法は、かつてフルクサスが電子メディアにたいして試みたように、デジタルメディアをクールダウンさせる方法を探すことだと思う。


16. メディアにたいする野望的観測

 僕たちはメディアを通じてしか内容を知覚することができない。かつて僕たちは日記や手紙のように、時間や思考を固定させる手段として、外部メディアを用いていた。デジタルメディアによるスピードアップとともに、僕たちはもっと思考の内部留保を頼るようになる。すべてが外部化されているのは何も外部化されていないと同じ意味になるからだ。
 マクルーハンは電子技術をして無意識を意識する初めての時代と述べたけども、いまや僕たちは意識的に意識を行使する初めての時代へと突入している、というと比喩的すぎるだろうか。デジタルメディアの時代は、文字文化人にとっては社会の代理機能を失った議論にどのようにしてふたたび文脈を与えるかが、大きな挑戦となる。それはしかし、芸術家にとってデジタルメディアにどのようにして絵具のような遅延性を持ち込むかが課題であるように、おそらく芸術的な実践に近いものだ。そして芸術を行う人々はさらにパフォーマティブな存在になっていくだろう。


 追補1. お詫びとデジタル・マクルーハン

 この文を書いた当初、とっ散らかったまま入校してしまったので後日になって数段楽を削除し、数カ所に新たに文章を加えた。修正前をご覧になった方は、本当に御愁傷様だ。で、修正しながら、ふと、僕が関心を注いでいるのは、デジタル・テクノロジーがインターネットや既存のメディアに対してどういう変化を引き起こすのか、という点にあるのだとあらためて気がついた。そこでポール・レヴィンソンの『デジタル・マクルーハン』という本をamazonで注文した。いままでマクルーハン以外にメディア論を標榜する本を買ったことはなかった。ところどころでチラ見した感じでは、どうせデジタルなどと冠したメディア論は、ハイテクに偏っていて、知覚レベルの全体論的な記述は期待できないと思っていたからだ。実際にはレヴィンソンの著書はそんなことはなかったし、ものすごくストレートな理解力と批判精神を持った方だと思った。しかしながら、デジタルと銘打っているにも関わらず、この本ではデジタル・テクノロジーの性質についての考察には出会えなかった。どうせならタイトルを『インターネット・マクルーハン』とかにしてくれれば良かったのだ。語呂は悪いけど。今回の修正は、どちらかというとジェームズ・ギブソンの再読を通じて頭の回転がましになった、というところが大きい。




テキスト:荻野瑞穂