正しい人 8月 : 荻野 瑞穂の『直接知覚論の根拠―ギブソン心理学論集』著:ジェームズ・J・ギブソン



8月
荻野 瑞穂 直接知覚論の根拠 ―ギブソン心理学論集 著:ジェームズ・J・ギブソン
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『直接知覚論の根拠―ギブソン心理学論集』
著:ジェームズ・J・ギブソン
編集:エドワード・リード、レベッカ・ジョーンズ
訳:境敦史、河野哲也
発行:勁草書房(2004年)





















01. 僕たちは地球が丸いということを知覚できない

 僕たちは地球が丸いということを知覚できない。
 しばらく、というか、かなり前に、知人のアーティストがこんなことを言っていた。この言葉はなぜだか僕のなかでひとつの基準点になっていて、ふと立ち止まって考えるときによく参照することになった。ちなみに、この言葉をどう思うかといろんな人に尋ねてみたんだけども、答えはだいたい半分に分れる。つまり、実感できるという人と、出来ないという人と。いずれにせよ、地球というものが僕たちの知覚の縁にあるのは間違いなさそうだ。
 僕たちは日常でも「空間」とか「時間」とかいう言葉を、それらが抽象的な概念であることを忘れて、さも実在しているかのような気持ちで気軽に話している。でも、この基準点に照らせば、これらの言葉の使用にはもっと慎重さが求められることが分かる。
 


02. 僕たちは丸い地球に属している

 ジェームズ・ギブソンの『生態学的視覚論』を久しぶりに読み返していると、偶然にも地球の丸さについて述べている箇所に出会って― 偶然じゃないかもしれないが、まったく記憶になかったので ―ちょっと驚いた。ギブソンの見解はこんな感じだ。
 大地は動物の行動の基盤であり、空間知覚の基盤でもある。大地には様々なものが散在している。堅い、水平な、平たい面は散在物の背後に広がっており、そして、実際、地平線の果てまでずっと広がっている。これはコペルニクス的地球ではなく、人間のスケールでの地球であり、そのスケール上では地球は丸くなく、平たい。どこへ行こうと大地は地平線によって空と分たれており、地平線は散在物におおい隠されていることもあるが、つねにそこに存在する。視覚的に思い浮かべることが出来るという意味で、地平線はつねに見ることができるし、人が触れるいかなる面も地平面との関係で経験されるという意味で、地平線はつねに感じることができる。
 これは妥当な答えだ。高い所から見下ろしたり船から大洋を眺めれば、たしかに地球は丸く感じられる。でも、地平が空と「分たれて」いて、僕たちがここに「立って」いると感じるのであれば、僕たちは丸い地球ではなく平たい大地の上に諸々の知覚を築いているとするのが正しい論理というものだろう。言い換えれば、僕たちは丸い地球の上に住んでいるんじゃなくて、僕たちは丸い地球に属しているんだ。
 


03. 僕たちは僕たちの世界を疑うことはできない

 ジェームズ・ギブソンは抽象の罠に陥ることのないよう、世界を生きる僕たちがどのように知覚しているかを丁寧に考察し、知覚の基準点を打ち立てた。

 ①僕たちは環境のなかで動き回り、食べたり寝たり、死んだりする。
 ②僕たちは環境がどのようになっているかを知らなくてはならない。
 ③知覚を生じるのは精神や頭脳である必要はなく、環境においてである。

 つまり僕たち人間は世界に属する存在であり、特定の環境や場所(=ニッチ)を知覚して生きている。控えめに言ってもこれらの主張は正しい。概念や表象、社会など人間は部分的には間接的な世界把握のなかで生きているのだが、それでもより原始的、直接的な世界把握を行っていることは疑いようがない。僕たちが生きている世界の諸々の存在を疑うことは、僕たち自身が生きていることを疑うことに等しいわけで、どれほど文字文化にどっぷり浸かった人間にとっても完遂不可能な企てだ。
 


04. 外の世界はそのものとして実在しているのか

 行動に結びつかない知覚は、僕たちが生きるうえで価値がない。つまり「環境」というやつは僕たち動物の大きさや時間の占めるメゾな水準のことだ。でも僕たちは行動と切り離された知覚を想定できるから、間接知覚で何事も説明できてしまうような錯覚に陥りがちだ。ギブソンはそういった既成概念を打ち砕くために、知覚の直接性を強く主張した。そのため、彼は知覚の間接性を軽視している、つまり動物の中枢神経系が環境にたいしておこなう処理や般化を否定していると受け取られた。 

 従来、哲学はこの僕たちの知覚が直接なのか間接なのかという議論を好んできた。そもそも世界を直接知覚しているかどうかという疑いは、音や像は実在しているのかという問いに他ならない。人間や他の視聴覚をもつ動物という入力系を考えれば、光→像→認識や、振動→音→認識という間接的な知覚の流れは正しいように思える。つまり、像や音というのは僕たちの中の幻想とはいわないまでも変換された世界であり、世界そのものではないという考え方だ。でもギブソンの発したメッセージは僕には、像や音は実在している!と言っているのだと聞こえる。ギブソンはそれらのことを― 機能や価値と呼ぶと、哲学的な悶着から切り離せないので ―アフォーダンスと呼んだ。にもかかわらず、相変わらず哲学的な論争にまきこれているのは、この概念がギブソンにしては抽象的すぎるからなのだろう。
 


05. 単純に外の世界はそのものとして実在している、ではダメなのか
 

 ○か×かとか、どっちが先か、みたいな議論はほとんどの場合、不毛だ。氏か育ちか、自由意志はあるか、オリジナルが先かコピーが先か、どれもこれも延々と議論を続けることは出来るけども、答えは決まってどちらも正しかったりする。
 デカルトが「我思う、ゆえに我あり」と言ったが、このときすでに他者を通じた知識が前提となっている。これは僕たちが世界に属している存在であれば、当然のことだ。(でも、デカルト的な還元主義がきわめて実用的であることは忘れないようにしよう。)僕たちの一連の知覚過程が「間接的で分割可能」なことと、実際に知覚が連続した運動として「直接的で分割不能」なかたちで起こっていることに、本当のところは何の矛盾もない。「考え続けられる」ことと「答えが出ない」ことは全然違うからだ。つまりある数字が割り切れないから、無限に続くと言うのと、その数字が無限だというのはまったく違うんだけども、僕たちの脳みそはつい混同してしまう。
 完全な客観や主観を論証しえないように、完全に直接的な知覚も間接的な知覚も所詮は僕たちが生きている環境によって規定されているにすぎない。だからといって「間なんとか性」みたいな言い方も― 問題の視座をあたえる点では重要なことは賛同するのだけども ―実際の何かを説明しようとすれば、言語を現実に合わせただけの小癪さばかりが際立ってご免だ。つまり、こういった言葉がそれ本来の文脈を離れて何かの説明や解釈に援用されるとき、その使用者の立ち位置の正しさ以外は何も意味しない。
 


06. 解釈をこねくりまわしているものほど胡散臭く感じるのにも理由がある

 芸術作品の意味は作品にあるんじゃなく、鑑賞者にあるんだという議論がある。これも「間なんとか性」の一種だけども、ここでも同じことが言える。僕が芸術作品を鑑賞したり、小説を読んだとき、あるいは映画を観たとき、その意味や内容を感得したとすれば、それらは作品にではなく僕のなかにあるのだ…なんて本当に思うひとがいるとしたらそっちの方が驚きだ。お腹いっぱいの僕にとってリンゴの価値が低いとしても、そこでリンゴの価値は僕のなかにあるなんて主張するなら、動物として僕はどこか間違えている。感動でも願望でも喫緊性でも、それらはたしかに僕のなかの固有のものであることに間違いはない。でも僕たち多くの動物それぞれの関係性の総体がリンゴの価値なのだ、というように考えるところにそもそもの飛躍がある。
 僕たちは環境における適性な表れの水準においてものごとを知覚する。そのなかでは僕たちの行動をきめるさまざまな構造を探索する以外にも、重要な知覚がいくつもある。そのうちのひとつは、対象が生物であるかどうかということだろうが、それと同様に、対象が人間がつくり出したメディアかどうか、という判断はきわめて直接的で重要な知覚だ。それらは僕たちの生態系における擬人的な存在であり、生物に対するようにひとつの全体として― 耳に聞こえたのが意味のある言葉であること、目の前をよぎったのが自動車であることとして ―認知しなくてはならないからだ。芸術作品は習慣的にとりわけ擬人的な何かのように扱われるが、それらは特別、芸術にまつわる性質というわけじゃなくって、むしろメディアのもつ性質だといえる。だから当たり前だけど、芸術作品の意味が作品にあるか鑑賞者にあるかという問いも、芸術特有の問題なんかじゃない。
 


07. もう一度言うけれど、外の世界はそのものとして実在している、でいいんじゃないか

 話がそれたので戻そう。
 水が乾いて蒸発しても、水素や酸素は空気中に変わらず残されていることは知ってはいるが、それをして水が消え去ったという知覚は幻影だ、とするのは現実的とはいえない。同様に、レコード盤が音で作られていないからといって、レコード盤には曲が含まれていないとするのも非現実的だ。
 ものごとの価値は、情報は、あるいはアフォーダンスは、僕たち個々の動物の知覚の総体「的」なもんだけど、それは総体じゃない。分割不可能な全体とか精神とか言い換えちゃうと、なんだかホーリズムだけども、まあその通りだ。はっきりしているのは、通常僕たちは、ものごとの価値はものごとが保持しているものとして認知され扱われているのだから、そういう僕たちの活動を分析したければ、ものごとを還元するんじゃなく、僕たちが生きている環境のなかから、ものごとの価値にアプローチしなくちゃいけないということだ。
 本当のとこ、僕は、アフォーダンスという言葉だって、ギブソン理論を集約するというもっとも重要な役割以外には、あまり実用性があるとは思っていない。ギブソンは間接的な知覚の、ほとんど絶対性といってもいいような妄信に一石を投じたのであって、それらを否定したわけではない。ギブソンはただ、外部の情報をインプットして、処理し、アウトプットするという三段構えの方式が、不必要でシンプルではないと感じたのだ。この、シンプルじゃないという見切り方は、世界に対しての率直な接し方として、とても重要なんじゃないかと思う。
 


08. 世界はひとつだけどもひとところってわけでもない

 僕たちはある意味、世界をありのまま見聞きしているけれども、話し言葉によって表現される世界は、実際の世界とは重なっていないところも多い。僕たちは、歴史や空間といったものを話すけし、真実や倫理などといった普遍的な価値に基づいて出来事を説明したりもするけれど、それらは実在していない。話し言葉を介した世界に僕たちは生きているし、そうでなければ人間は、直接見たり聞いたりする世界を生きているだけの存在になってしまう。だから、僕は拡張された身体としてのメディアに強い関心をもってきた。
 世界は無限に広がっている。世界は多層からなっている。雨、水滴、雲、海、生命…。観念的に結びつけられた物事は、実際にも結びついている。ギブソンは、画像が表現していることを間接的に知ることと、画像の表面を直接的に知覚すること、という二層の知覚を認めている。(少なくとも、僕はギブソンから直接知覚が間接知覚に先んずるというような印象を受けたことはない。直接知覚の優先は人間工学やロボット工学において、実際的な理由から支持されはするだろうけども。)当たり前だけども、人工的な世界と自然の世界というふたつの像の違いは、生きていく上で何の矛盾もありはしない。物語がフィクションであることを知っていつつも手に汗を握ることが可能なように、僕たちの知覚は重層的であることを好む。あるいは様々なニッチな環境に同時に適応することを偏愛している、と言ったっていい。
 


09. メディアによる知覚の拡張は、きっと、僕らの知覚の直接性を回復させる

 メディアを通じた知覚には変換やノイズ、錯覚といったものがつきものだし、僕たちの知覚バランスを変形させてしまうという性質もある。だけれども、メディアによる知覚は単純に間接的な知覚というわけじゃない。靴を履いて歩いているから、僕が地面を直接には知覚していないというんじゃ、またクダラナイ議論に後戻りしてしまう。あらゆるメディアは「文字通り」身体を拡張するんだ、と言い切ろう。僕たちは身体という基本的メディアとその拡張されたあらゆるメディアを通じて世界を探索するのだから。メディアが高精細度を志向するのは、どうやって直接性を確保するかということに関係している。
 僕が言いたいことは、メディアによる知覚の拡張は、知覚の間接性の増大という視点で見るよりも、むしろ知覚の直接性の回復という視点で見る方がいいんじゃないか、ということだ。(そういえば、マクルーハンもそんなようなことを言っていた。彼は触覚が統合のためのキーワードだと言った。)そして、僕たちのさまざまな間接的な知覚― 遠い国でのオリンピック競技を応援すること、微生物の世界に泳ぐこと、そして宇宙から丸い地球を見ること ―は、どれも直接的な経験なのかもしれないということだ。




テキスト:荻野瑞穂