正しい人 3月 : 泉 大のエリック・ロメール

3月
泉 大 『三重スパイ』公開に向けて
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 エリック・ロメールの映画というのは大概ほのぼのしていて、いわゆる、何も起こらない、と言われる映画です。何も起こらないと言われるし、言われる理由も分かりますが、本当は色々起こっています。人が映っていて、恋したり、悩んだり、普通に歩いたり、鳥が鳴いたりしているのです。そして、その背後には風景まで映っています。映画というのは、画面に映る要素としては、それだけで充分なのです。

 唐突ですが、先日DVDで『ファール・プレイ』という70年代のアメリカで撮られたサスペンス・コメディ映画を観ました。この映画は、無理やりに何かを起こ そうとしていて、無意味にカーチェイスをしたり、家具を壊したり、ふざけたり、物語の展開をドラマチックにしたりしています。しかし、この映画もいいので す。ということは、良い映画は、事件なるものが起こっても起こらなくてもどちらでもいい、ということになります。人は映画の「出来事」をもちろん見ていますが、「出来事以外のこと」も見ていて、むしろ「出来事以外のこと」に何か重要なことがあるのでしょう。「出来事以外のこと」とは恐らく、「時間」と「映っている感じ」なのではないでしょうか。

 「時間」とはカット割りと言われるもので、つまり編集です。編集は大変に重要なもので、ある意味で映画そのもの、と言えるのかもしれません。何かの映画について話をするとき、編集が普通であれば特に気にせずすっとばして、女優がきれいだ、とかそんな話をすることもしばしばです。しかし編集が下手な場合、気になってとても見てられないでしょう。家の中に無意味な柱や壁が乱立していると普通に生活できないのと同じで、「最低限そこは」というところです。それが あってはじめて、女優がきれいだ、が言えるわけです。もちろん、いわゆる上手い編集だけが良いということではありません。一見下手に見えても、シーンと シーンが衝突するような効果を生み出すこともありますし、それは様々です。

 「映っている感じ」の方は映画作家の生命線でしょうか。「映っている感じ」とかこんなぼやけた言葉を説明できるのかわかりませんが、まず「ショット」があると思います。「ショット」とは「画面を絵にすること」で、構図が重要です。構図というのは不思議なもので、それによって居心地が悪く感じたり、座りがいい、と感じたりします。何故かはもちろん分かりません。人は構図によってそう感じる生き物なのです。そして何よりも、座りがいい、の向こうには「かっこいい」が待っています。「かっこいい」ということは素晴らしいことです。そっちが「かっこいい」であればこっちはハイタッチをするまでです。映画はもちろん「画」の途方もない畳み掛けなわけですから、それを構成する一枚の「画」はとても重要なのです。「かっこいい」画は記憶にも残ります。過去に見たある映画を思い出そうとしたときに、ストーリーや前後の出来事は全く覚えてないけど、ある瞬間の「画」は出てくる、ということはだれでもあるでしょう。ただ、「かっこいい」は「かっこつける」と近いので、間違えると鼻につくもので、逆に腹立たしくなったり冷めてしまったりもする取り扱い注意な代物です。その出し引きも作家のセンスです。できるのにわざと「かっこいい」をしないというのも充分あることです。ちなみに「かっこいい」というのはビジュアル系的な 「かっこいい」ではなく、収まりがいい構図というものを超え、「画」だけで何かを発している状態のことです。

 「映っている感じ」には「状況を見せる」も含まれます。例えば大勢の人間が入り乱れる格闘シーンがあった場合、現在の映画ではより顕著ですが、格闘の様子を短いシーンの連続で見せることがよくあります。短くするのはスピード感や緊迫感が出るからです。こういった格闘シーンというのは、ただ「ジャッキー・チェンをばっちり撮りました」ではだめで、良い映画は、今ジャッキーがどういう場所にいて、蹴りの直後 武器として使おうとしている椅子がこの距離にあって、横の建物の屋上からは敵のボスとそれに囚われた女性が見ていて、などが短い時間で、こちらが混乱する ことなく、すっと入ってきます。いい印象を持たない映画は、そういう状況が見えにくく、こちらがよく分からないうちに、はい格闘終わり、となってしまうの です。これはアクション映画以外でも同じことです。


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 ではエリック・ロメールの映画で「時間」と「映っている感じ」を考えたとき、今書いたようなことは、実はあまり意識されません。むしろ編集やショットに、「キメ」がない、という印象を持ちます。これは彼の技というか特徴であり、重要なことです。彼の映画は、人物と風景というか周りの世界との境界線が曖昧で滲んでいて、人物と周りの世界がほとんど同じような感覚で撮られている、という印象を持ちます。このような効果は、「人物と周りの世界を同じような感覚で捉えよう」とカメラを向けるだけでは生まれないはずです。
 ずっと、何で彼の映画はこんな 不思議な印象を持つのか、と漠然と思っていたのですが、よく考えてみると、一つは、「音」がそういう印象を持たせている要因だという気がしてきました。普通、映画は音を作りこみます。というか余計な音は、はぶきます。必要な会話や物音以外は大概消すのですが、エリック・ロメールの映画は周りの環境音がそのまま入っています。そのままかは分かりませんが、そのままだな、と思わせます。例えばある作品の、カフェのテラスでお茶してるシーンなどは、その辺を走っているバイクの音がかなりの音量でそのまま入っていて、会話の途中、その音が消えるのを少し待ってから会話を再開しています。人も周辺にかなり大勢いて、みんな相当しゃべっています。それがそのまま入っているのです。この音によっ て、人物と周りの世界の境界線が曖昧な印象になっているのではないでしょうか。人物も風景の一部として画面に存在し、画面の中の世界の異物になっていない のです。そしてここで気づくのが、彼の映画は、「映画」、というよりは、現実の世界に近いということです。

 実の世界に近いと思われる シーンを見ていて、何か違和感を感じるというのは不思議なものです。普段生きている状況に近いのに「映画」として見ると、変なのです。なぜなら、多くの映 画は、日常的なシーンも日常ではなく、やはり「映画」然としているからです。フレーム内で作られた構図。無駄がなく整理された音。ストーリーに導かれる役 者のセリフと行動。こういったことは現実にはありえません。もちろんそれが悪いわけでは全くなく、それが「映画」なのですが、エリック・ロメールの映画はそういう地点には立っておらず、別の所で飄々と立っているのです。

 もう一つ、「映画」ではなく現実の世界に近いと思わせる要因となるであろう彼の試みとして、そのままですが、シーンによって、急にドキュメンタリーになる、ということがあります。これはどういうことかというと、打ち合わせも何もしていない、役者でもない、そのへんのおっちゃんと、主演女優が会話したりするのです。女優のほうは映画の役柄でいます。このおっちゃんが最初登場した時には、役者だと思ってこっちは見ているので、数秒は違和感がないのですが、直後、演技が上手すぎる、という か、演技をしていない、と感じ、それと同時か少し遅れて、普通のおっちゃんだ、と気づきます。本当ならこのおっちゃんは、野次馬として撮影現場を見ているべき人物であるはずなのに、堂々と画面の中央に映ってしまっていて、しかもリラックスした表情で昔話などを女優に話し、そしてカメラの背後にいるであろうスタッフの方を見る、という暴挙にまで及んでしまうのです。映画の中で、この「カメラの背後にいるスタッフ、もしくは監督の方に向ける視線」というのは、 非常に違和感があります。とんねるずがよくやるカメラの背後のスタッフに向ける視線がありますが、あれを映画の中でやっているのです。

 劇映画でこの視線というのは、その先に登場人物がいないと、通常、アウトなわけですが、おっちゃんは当然よく分からず出演しているのでやってしまいますし、それをエリック・ ロメールという映画作家は堂々と本編で使用するのです。しかも、ここが凄みなのですが、この試みによって現れた画面が、「アヴァンギャルド」とか仰々しい言葉など、するりとかわしてしまうほど軽やかで清々しく、微笑ましいのです。彼の作品から受ける、「人物が風景に滲み溶け込んでいくような不思議な感覚」は、こういった「音」や「唐突な現実の混入」によって生じるのではないでしょうか。

 そしてなんといっても、これは印象ですが、といってもこれまで書いてきたことも全て印象ですが、エリック・ロメールの映画には、最初に「大きな諦め」のような気持ちがあるように感じます。その「大きな諦め」とは、「とにかく今、人間として生きていて、自分よりも先に生きた人間が作り上げたこんな感じの社会に自分があって、モノを食べたり、歩いたり、会話したり、寝たりする。そしてそこからは絶対に逃れられない。」というものです。しかし、彼はおそらくそのあと、「逃れられないけど、別に逃れなくてもいいじゃないか。確かに根っこの事は分からないけど、茎や葉だけでも充分魅力があるし、たまには花まで咲いてしまうような世界だろ。」と(フランス語で)続けるはずです。彼の映画にはこういった、「OK!」という感じが満ちていて、観ているとつい幸福な気分になってしまいます。しかしそれはただの「OK!」ではなく、「大きな諦め」という裏打ちのある「OK!」で、のんびりとした空気感の背後には、何か非情で不条理な物事が、ぴったりと背中を合わせているのを感じるのです。 非情で不条理な物事を包み隠すことなく、むしろそういったものの中でのみ初めて感じることのできる「OK!」。これが彼の映画の最大の魅力であり、多くの 人間が魅了されている部分だと思います。


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 エリック・ロメールは一昨年亡くなりましたが、今年彼の日本未公開だった『三重スパイ』が公開されます。『三重スパイ』とか急にいわれても何も思い浮かびませんが、とにかく三重県を舞台にしたスパイものではなさそうです。