正しい人 4月 : 小栢 健太のアネット・ケルム

4月
小栢 健太 アネット・ケルム
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Annette Kelm
born 1975 in Stuttgard, lives and works in Berlin




Johann König, Berlin
Marc Foxx
Andrew Kreps Gallery
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 随分と長くある写真家について思いを巡らせている。アネット・ケルム|Annette Kelm、70年代生まれのドイツの女性写真家がその人。手元には彼女の写真集が2冊、『Errors in English|2007(Buchhandlung Walther Koenig GmbH & Co.)』、『Annete Kelm|2010(Koenig Books Ltd)』。双方とも同じ時期に手にした。後者は2008-2009年にロッテルダム他で開催されたケルムの展覧会に合わせて出版されたもの。2003年からの仕事を紹介し、彼女の作品を眺望できる写真集になっている。中でもポートレイト、動物、植物、静物、建築、風景など、モチーフを軽やかに横断する彼女の姿勢が、その他の写真集にはない風を吹かしている。彼女の仕事の特徴は、ベッヒャー夫妻を初めとする現代ドイツ写真からの流れをもつドキュメンタリーを意図的に排除し、匿名的な視点でとらえるお決まりのクールな手法を周到しながら、しかし一方で、左手にはある種のモチーフや色彩を好んで選択する「嗜好性」やモデルのユーモラスなポージング、環境を無理にでも構図内に反映させる方法、時間的に連続するフィルミックな展開など、ベッヒャー派にはなかった「ちょっとした操作がなされていること」につきます。このドキュメンタリーにも、端的すぎるドキュメントにも「ニヤミス」で接近し、しかし回避する両天秤が魅力でなりません。ドイツ的でありながらも、少しゆるいめの対象化作用が、友人を撮ったと思えるポートレイトを「正しくおさらいする」気分を促して、不意のうちに写真を眺めるさせ、おせっかいにも多義的に知りたいと思ってしまいます。しかし、なぜに「モデルはおそらくケルムの友人?」「気がついてしまう程度のぎこちなさとモデルのポージング」「決めてるようで決まっていない感じ」「あかるい色彩」が「これまでにはなかった新しさ」と「ライトな古さ」を導いてくるのか。こんなことを思うと僕は、「そういえば、写真の架け方について、もう少し知ることがあるな…、」とアンネット・ケルムの写真を通じて至ってしまいます。

"I started painting from slides that I made myself," "And most people said 'The photos are okay, but the painting..."
(写真はいいけど、ペインティングはね…と皆は言うの。ほんとうは自分で撮って、ペインティングのために使いはじめるはずだったのに。)ー*a

"The cap is completely thought-out but it still doesn't work, I would like it when things fail like that."
(その帽子は依然として役立たずなのに、すごく考えられて作られているわ。私はそんなつまずいている状態がとても気にいっているの。)ー*b

 そう言えばブランクーシはマン・レイから写真を教わったそうです。彼が自作『ポガニー嬢』をはじめ多数のアトリエの写真を残していることは、ケルムについての評論で頻繁に引かれ登場します。アートヒストリーの裏方には、もう一つの写真史があって、ミュシャのポートレイト、ドガのスナップ、ピカソのスティル・ライフ、トゥオンブリーのポラロイドなど、アーティストが絵画や彫刻制作に併行し、相当数の写真を残していることとの関係を思い出させます。写真に出来て絵画に出来なかったこと、あるいはその逆。彫刻もしかり。この題材にわかりやすいぐらいに真面目に向かっていった写真家を僕はあまり知りません。そこからするとおそらく彼女の「ライトに古い」はまだまだ通用する言語でありそうです。


*a,*b:ウェブサイト『db artmag「Cold, Clear, Pictures Annette Kelm's Conceptual Photo Works」』から引用、和文は筆者訳。





テキスト:小栢健太|アーティスト