正しい人 3月 : 荻野 瑞穂の『遊びと人間』著:ロジェ・カイヨワ

3月
荻野 瑞穂 遊びと人間 著:ロジェ・カイヨワ
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 遊びについて書かれた本は数多くある。最初に言ってしまえば、ロジェ・カイヨワの「遊びと人間」のもつ深さと鋭さは、そのなかでもずば抜けている。 カイヨワの功績としてよく知られているのは、漠然とひとつにくくられていた遊びの諸特徴を四つのカテゴリに分類し、遊びの性質を明らかにしたことにある。共通の枠内で技芸を競い合う「競争」の遊び、運否天賦に賭けて裁定を待つ「偶然」の遊び、他者を演じたり造形したりする「模擬」の遊び、そして身体の回転や精神的な惑乱を通じて忘我をもたらす「目眩」の遊び。これら四つの分類は、ゲーム論はもちろんのこと、教育学や社会学など多岐にわたる分野において引用されつづけており、まさに古典といってよい位置を占めている。このことは、カイヨワが遊びを出発点とした社会学の基礎付けを試みたいと述べた、その意図が成功しているという証でもあるが、実際のところ、この本はけっして学術的な体裁をとってはいない。
 
 それでは「遊びと人間」とはいったいどういう本なのかというと、いざその特徴をあげようとすると、如何とも言いようのなさにとらわれる。豊富な資料に裏打ちされているが、その文は博覧強記という風ではなく、どちらかというと先を急いでいるかのようである。また、抽象的な対象を相手にしているのに、まったく形而上的な風でなく、それは力強い意思の歩みを見るかのようである。カイヨワの後にも先に優れた遊び論は数多くあるが、それらに見られるような、遊びを分析し意義を説明しようとする視点とも、遊びを礼賛しその価値を讃えようとする視点とも、カイヨワの視点は決定的に異なっている。彼の論考を際立たせているのは、このような思考の冒険性にあるといってもいい。まるでそれは、遊びという手に負えない怪物に対峙し手綱を掛けようとしているようなイメージを彷彿させるのだ。 カイヨワは各種の遊びの結びつきや崩壊を考察することで、人間の文化の成り立ちと変遷を明らかにしようとする。この本の結論だけを取り出せば、人間の歴史はそのまま遊びの歴史なのだ、ということにでもなるだろうか。それはそれで有意義な読み方かもしれないが、しかし、この本の目指しているのは、そんなところにはない。この本の論考そのものが、人間のもつ本能的な好み、とりわけ目眩の遊びから見いだされる、暴力、破壊、惑乱、こういった力に魅せられつつも、この力に逆らう方法を探ろうとするカイヨワの意思として残されているのだ。彼は遊びの性質を規定することで、その魔力を解除する方法を、ふたたび遊びのなかに見つけようする。カイヨワが幾度か目眩の遊びを職業とする人々の存在に言及しているのは、おそらく偶然ではない。

 「軽業師は、目眩に逆らわず敢えてそれに身を委ねるだけの自身がある場合にのみ成功する。目眩とは自然の一部であって、これに服従してのみこれを統御しうるということだ。」
 



 


01 あらゆる文化は遊びの中から生まれてくるということ
 

カイヨワの思考に触れるためにも、まずは彼自身による定義をそのまま引用しよう。

1|自由な活動。すなわち遊戯者が強制されないこと。
  もし強制されれば、遊びはたちまち魅力的な愉快な楽しみという性質を失ってしまう。

2 |隔離された活動。
  すなわち、あらかじめ決められた明確な空間と時間の範囲内に制限されていること。

3|未確定の活動。すなわち、ゲーム展開が決定されていたり、先に結果が分かっていたりしてはならない。
  創意の必要があるのだから、ある種の自由がかならず遊戯者の側に残されていなくてはならない。

4|非生産的活動。すなわち、財産も富も、いかなる種類の新要素も作り出さないこと。
  遊戯者間での所有権の移動をのぞいて、勝負開始時と同じ状態に帰着する。

5|規則のある活動。すなわち、約束ごとに従う活動。
  この約束ごとは通常法規を停止し、一時的に新しい法を確立する。そしてこの法だけが通用する。

6|虚構の活動。すなわち、日常生活と対比した場合、二次的な現実、
  または明白に非現実であるという特殊な意識を伴っていること。
 
 遊びは多様で、この定義はそのすべてが当てはまるわけじゃない。というよりも、むしろそのいくつかは実際には矛盾し、ひとつの遊びのなかで共存しないものもある。でも、どんな遊びにも、これら諸特徴との類縁関係を見つけることができる。日常から隔離され、自由に参加でき、何も生み出さない、こういった性質から、遊びは気晴らしや社会生活のための訓練などとして見られたりもする。しかし、それらは遊びのもたらす付属的な効果であって、遊びたい者は遊びたいときにだけ遊ぶのだ。強制されたり、それどころか、推奨されただけで遊び心は失われてしまうものだ。もしも遊びに何かの役割を見いだしたいならば、遊びの精神を原理とする活動に目を向ければいい。たとえば祭祀や市場、法律、科学、スポーツ、そして芸術など、それらの活動が遊びに起源を持ち、遊びを真似て作られてきたことに疑問の余地はない。だからいっそ、カイヨワのように「あらゆる文化は遊びの中から生まれてくる」といった方がおそらく正しいのだろう。もしあなたが僕と同じように芸術に関心を持つ者なら、遊びの定義と芸術のそれとの同一性に気づかずにはいられないはずだ。僕はこれ以上に明確な芸術の定義をいまだに聞いたことがない。芸術を定義づけているのは遊びという活動そのものであり、それ以上でもそれ以下でもない。だから芸術と遊びとの境界線を明確にしようとする試みは、いささか無益なことのように思える。実際のところそのような試みはあるのだが、人類とそれ以外の動物の区別を論証しようとする試み同様に、心情的なことのように思われるのだ。

 

02 遊びを分類する
 

 カイヨワによる有名なカテゴリ「競争」「偶然」「模擬」「目眩」の四つは、前述の定義の組み合わせと、古今東西の様々な遊びの検証から導きだされている。競争と模擬はスポーツや芸術などによってよく知られ、さまざまな社会的価値を広く認められている遊びであるといえば、だいたい想像がつくだろう。それらの遊びがポジティブな遊びだとしたら、カイヨワのユニークなところは、偶然と目眩という、ともすればネガティブな印象を持たれる遊びを明確にしたことにある。ここではこの四つの分類を、想像を膨らませつつなぞってみたい。ここで述べられることの基礎はカイヨワの言葉だが、半分以上は僕の解釈によることを断っておく。
 



03 競争の遊び

 遊びのなかでもっとも目立つのは、競争という形をとる遊びだろう。人々はできるかぎり外部からの影響を取り除いた平等な条件の下で、体力や技や知性など何かの特性において競い合う。そこにはトラックレースなどの身体的な競技から将棋などの知的な競技まで、多くの遊びが含まれるし、芸術や登山などの直接誰かと競い合ってないように見える個人的な活動も、大きな空間と時間のなかでみれば、多くの対抗者とのあいだで競争を行っているといえる。この競争の遊びの原動力は競技者の能力を示すことにあり、それゆえ、僕たちに学習や研鑽を推奨する。この個人の能力による権利の主張とフェアプレイという規則は、遊び以外のところにも広く見いだされ、現代社会における正当性の保証や機会の平等などの原則に結実している。

 

04 偶然の遊び
 

 競争が誰かに打ち勝つことを原動力とするのにたいして、偶然の遊びは宝くじやすごろくのように、プレーヤーは完全に受動的で、運命の判決に身を委ねることが要求される。偶然の遊びのほとんどでプレーヤーは金銭や所有物を賭ける。リスクをおかし、自らの運に打ち勝ちたいと望む。幼い子供は偶然の遊びをほとんどしない。この遊びに楽しさを見いたすには、予想、計算、投機といった能力、つまり数理への明るさが必要とされるからだ。このように賭博には知識と洞察が必要とされるものが多くあるが、逆説的に、プレーヤー間の能力に差異がないか、それがほとんど役に立たないほど、偶然の遊びはより魅力的になり、得られる金額も大きなる傾向がある。チャンスが平等でなければ、偶然は偶然ではなくなるからだ。


 

05 競争と偶然の結びつき
 

 公平な競争に破れた者は、自分の能力の至らなさを受け入れるしかない。しかしながらこの無能さのいくらか、体格や性質、財産、環境といったものが、生まれつきの偶然に影響されることは誰でも知っている。どこに生まれるかは誰にも采配できない公平な偶然だが、その後の競争においてはひどく不公平に感じられるだろう。そこで人生において更なる偶然を期待することは、競争による努力と報酬の関係にたいするカウンターバランスとなっている。

 この偶然と競争という二つの遊びは、自ずと補完しあう関係にあるのだ。野球やサッカーのように観戦者に人気のあるスポーツほど、偶然性が結果を左右する傾向にあるのは理由のないことではない。国際的な競技大会などでは、対戦の組み合わせを決めるために祝祭の雰囲気のなかで抽選が行われる。麻雀など手札をいかに効率よく運用するかを競う遊びにおいては、偶然こそが遊びの要である。コントロールが不可能な偶然と、卓越さが求められる技量との競合は、遊びを公正なものにするために欠かせないというわけではないが、公正さを担保するためのハンディキャップは、不公平を解消するための不公平な手段ともいえるもので、競争の正当性を侵害する可能性がある。その点、偶然は競争に未確定な状態を、つまり展開可能性をもたらすために欠かせない要素となっている。このとき遊びは人生のモデルであるかのようだ。

 

06 模擬の遊び
 

 どんな遊びも同意と隔離を活動の前提としているが、模擬というのはそのような虚構性自体を目的とする遊びのことを指している。原初的な模擬は、赤ちゃんが母親の言葉をおうむ返ししたり表情を真似てみたりする、そのような動作の感染や嗜好という形で始まると考えられる。名前のつけようもない初期段階の遊びは、やがて物まねや何かを模して作り出す遊びにつながってゆく。そこでは何かを真似ること、何かを演じること、それ自体が楽しみとなる。遊ぶ者やそれを観る者が、実際に騙されているかどうかは重要ではない。飛行機の振りをする子供は、なにも親が子供を飛行機と取り違えてくれると思っているわけではなく、ただ同じ約束事に従ってくれることを期待している。そこで、君は飛行機ではないと言ってしまえば、遊びは台無しになってしまう。模擬の遊びは虚構にたいして夢中になること、その時、その場において、現実以上に現実であるものとして扱わうことが求められている。

 

07 目眩の遊び
 

 目眩の遊びでは、人は意識を一時的に惑乱させて陶酔する。人は好んで、体をぐるぐる回転させてよろめいたり、ジェットコースターに身を任せて真っ逆さまに落下してみる。目眩はこのような平衡感覚を乱すことだけに関わるわけではない。積み木を崩したり、ボウリング遊びでピンをなぎ倒したりする快感は、より精神的な傾向において顕われている例である。身体的には目眩への慣れは、過剰さを求めて中毒性を引き起こしやすく、精神的には人の破壊的な好みと結びつきやすい。そのため、ドラッグやアルコール、さらにはそれらをともなう乱痴気騒ぎなど、もっとも放縦な部類の目眩遊びは都市が文明化されるほどに、あるいは子供が大人になるほどに、制限されたり遠ざけられたりする。しかしながら、目眩は一定の抑制のもとで日常に組み込まれている。映画におけるめくるめくスペクタクルや、音楽による高揚感などはそうした精神の現れだろう。とりわけ、つけっぱなしのテレビをただぼうっと眺めているときや、ヘッドホンで大音量のロックを響かせたりするとき、ひとは純粋に目眩を遊んでいるといえる。


08 模擬と目眩の結びつき
 

 他者として振る舞うことで自らの意思を棚上げにすること、感覚に身をゆだね茫然自失となること、意思の自由な働きを棚上げにするという点において、模擬と目眩は近しい構造をもっている。古代社会では、この二つの遊びの結びつきは、いまよりもはるかに強力であったと考えられる。仮面を被ったシャーマンが酩酊し恍惚のうちに神々を演じるとき、あるいは、宗教的な上演が厳密な正確さのなかで執り行われるとき、それらを冒涜する者は命をさえ脅かしかねなかった。肝心な点は、ひとびとはそれがこの世ならぬ存在だと思っていたわけではない、ということにある。それが見せ物であり、儀礼上の約束にすぎないということを知っていたが、それこそが世界に聖なる場所を確定するための行為だと信じていたのだ。日本においても両者の黙契が、社会の基盤であったことを示す例には事欠かない。神遊びや田遊びといわれる祭りでは、参加者は曲芸や奇術を披露し、仮面を被り囃しのなかで踊り狂う。これら聖なる祭りの後継者であった世阿弥は、演者も観客も無心、つまり忘我になることが能の至上の表現であると明確に述べている。呪術者の仮面がただの演劇の小道具となり、司祭の衣装がただの制服となった現代の都市生活者にとって、模擬と目眩の結びつきはけして身近なものではなくなっている。もし現代における模擬と目眩の結合を例に挙げるなら、次の二つをあげたい。嗜虐的な性的嗜好、とりわけSMなどにおいてロールプレイとよばれる演出がともなわれるもの。あるいはテーマパーク、とくにディズニーランドのような徹底的に作り込まれた異世界において壮大な知覚体験のもたらす装置が設けられているもの。一方はきわめて私的で秘められたものであり、一方はとても公的で華やかなものであるが、ともに虚構性と魅惑性の強さによって過去の例に劣らないものに思われる。

 

09 遊びが壊れるとき
 

 真剣な遊びは人生を破滅させたり、ときには死をもたらす可能性さえある。だからか、遊びの堕落というとき、ついつい過ぎた遊びが日常生活を退廃させるというように想像してしまうが、実際にはそれとは逆の関係である。ルールがあり守られているのはつねに遊びの方なのだから。つまり、そこでは現実が遊びを浸食することにより、遊びそれ自体が逸脱してしまうのだ。そして、この堕落はペテン師や詐欺師のようなものが、遊びの裏をかこうとするからおきるのでもない。欺こうとする者はたしかに遊びのルールを蝕みはするのだが、それでも遊びを尊重する振りをするのであり、遊び仲間から報いを受けることはあっても、遊びの範疇から抜け落ちることはない。なぜなら、欺こうとする者は遊びの世界が崩壊してしまっては困るからだ。遊びを崩壊させてしまうのは、約束事をただの約束事にすぎないととして無視することによってなのだ。 これら遊びの堕落を競争原理に導かれた貨幣経済において考えてみれば、次のようになるだろう。詐欺や偽札造りは重大犯罪だが、経済をひっくり返したりはしない。このような裏切りが極度に氾濫すると、貨幣経済は混乱し新しい法規や新しい貨幣への移行が必要になるかもしれないが、それでもかろうじて経済のルールは温存される。なぜなら、ルールが弱められると同時に詐欺や偽札それ自体も力を失ってしまうからだ。だが一方で政府が債務を放棄したり新札を濫造すれば、あっという間に貨幣経済は崩壊してしまう。交換価値という貨幣の約束事を胴元である政府が率先して放棄したのだから、プレーヤーはそのルールに従うすべもない。もちろん現実はもっと複雑で曖昧で、多数の例外を抱えているだろうが、やはりそこには約束事を巡る根本的なあり方の違いがある。

 

10 革新はいつも遊び破りからはじまる
 

 迷信に頼り偶然をコントロールしようとする者は、偶然の判定を尊重しようとせず、目眩の中毒に侵される者は、我を忘れているのではなく化学的な力によってすっかり変えられてしまっている。それでも遊びの約束事を守るかどうかは、それが遊びである以上、参加者の自発的な意志にまかされている。欧米では遊びを壊す者のことを、スポイルスポート(遊び破り)やスペルブレーカー(呪文破り)などと気の利いた呼びかたをするのだが、強いて日本語で近いものを探すなら、野暮ということになるだろうか。これら遊び破りたちが遊びを台無しにしてしまうことは、遊ぶ者にとっては興醒めなことだが、この存在にはもうすこし広がりがある。かつて遊びであった精神が、それ自体圧制的になり、冒涜的な発想を抑圧するようになるとき、それらを虚仮にする必要が出てくる。ネイティブアメリカンにとってのコヨーテや、古事記におけるスサノオノミコト、中世ヨーロッパの宮廷道化師など、彼らは同じ神話や劇中や宮廷のなかにありながら、人真似をし、茶化し、権威の滑稽な写しを表すのだ。人類学者がトリックスターとよぶこのような類型でもとりわけ重要なことは、それらのなかの幾人(?)かは、新しい地平を切り開いたり、人類に知恵を授けるという物語に組み込まれていることだろう。制度がどれほど権威的であれ、ただそれを壊すことを目的にするならば、無為に遊びを貶めることになるだろうが、遊び破りが新たな遊びを作ろうとするのならば、それは創造性や革命性とよばれるようなものだ。現代でも革新的な人物がしばしば異端児であることは無理からぬことだが、彼女ら彼らは型破りだから評価されるのではなく、それが新しい基準をもたらしたからなのだ。

 

11 遊びのプロとは
 

 ここで僕の関心に話を引っ張りこませていただき、芸術をベースとして少しばかり考えてみたい。芸術家はプロの遊び人そのものといって過言ではないだろう。だから、あらゆる遊びのプロたちと同じく、芸術家にとっての当該の遊びはすでに遊びではなく、困難でストレスに満ちた労働なのだ。そして(この点についてはカイヨワの見解と異なるが)、プロのプレイヤーたちにとって、遊びと日常との区別は必ずしも明確ではない。聖職者が一生を聖なるものに捧げることを規範とするように、サッカー選手のようなスポーツ選手も、球技場にいるときだけプロ選手であるわけではなく、しばしば日常生活までもその遊び=労働の準備としてのルーチンに組み込まれている。芸術においても事情は同じである。近代化とともに芸術が芸術家自身の表現とされるようになると、経験や身体性などの芸術に現れる要素は、つねに現実とリンクしていることが求められるようになった。こだわりが強く、憂鬱質で、生い立ちや属性を強く体現する、このような世間に流布する芸術家像は、芸術家がつねに現実に浸食される存在であることを暗に示しているように思われる。少なくとも芸術家は芸術家像を演じることが期待される。そうでなければ、見せ物として魅力に欠けるとみなされるだろう。本来、遊びを台無しにしてしまう日常との交差は、たしかに芸術を遊戯的な性質から遠ざけているのだが、一方で芸術家を非日常的人間として強調することで、芸術を社会からみた遊び的なものとして位置づけてもいる。いうなれば、このとき芸術を遊んでいるのはそのプレイヤーではなく、そのプレイヤーを抱える社会の方なのだ。

 

12 遊びのルールを拒否することは自由だ、が、しかし
 

 それでは芸術におけるルールについてはどうか。芸術には遠近法や韻律といった技術的な形式から、鑑賞方法などの作品受容の形式にいたるまで、さまざまな約束事が存在し、それらのバリエーションは増加の一途をたどってきたように見える。カイヨワは言う、芸術のルールは恣意的であり、誰でもが自由に拒否できると。そうすることによって、遊びを破壊し、未来の新しい遊びの基準を素描するのだと。ルールの革新は何も芸術の専売特許ではないが、芸術がルールを重んじてきたことは間違いない。しかし、なぜ芸術においては新しい形式が古いそれを完全に駆逐したりしないのか。カイヨワはその疑問に答えていないが、芸術が生来「模擬」の遊びであったことを思えば、俳優が様々な役を演じるように、芸術作品が様々な観念をキャスティングされるものであること自体は、それほど不思議なことではない。そして、少なくとも芸術のいくらかはたいへんな長生きであり、芸術は時代時代にふさわしい観念をその領土に取り込み、滅びゆく形式や観念に、しばし―ひょっとしたら半永久的に―その居場所を確保しておく。呪術や聖なるものの遺物としての芸術、崇高で偉大な形式としての芸術、社会を覆してしまうような革命的な芸術、文明批判としての深遠な感情を形成する芸術、時代を映す鏡としての芸術、自然に近い天才のおこなう芸術、経済的価値をポトラッチのように蕩尽する芸術、生きがいや幸福の場を創造する芸術…。ひとつひとつは矛盾する観念であっても、その多義的な特性を帯びることによって、芸術は創造性という効果を身につけてきた。そうして、いまや芸術はもっとも純然たる遊びの構造に近づいているように思われる。社会の遊びとしての芸術は、当の社会に何事か重大な出来事が起きたとき、さまざまな期待に反して、きわめて無力な存在でしかない。しかし、カイヨワの言葉を借りて次のように考えてみたい。芸術は「かんたんに抹殺され、ひとりでに消え行く」ものだが、しかし、「おのれの外に重大なる事柄を放置しながらも、なお少なくとも、モデルとしての価値は持っている」と。


 

13 遊びを考察することのジレンマ
 

 芸術を遊びとの関係から考えてみることは、とても魅力的だ。しかし、芸術を俯瞰することは、芸術の約束事をただの約束事にすぎないとみなすことであり、芸術を傷つける行為でもある。これは僕にとって、たいへん心苦しいジレンマだ。このとき僕が心の拠り所にできるのは、僕にイメージや思考を呼び起こさせるのは、人間に芸術という遊びを生み出させたものと同じ力によってなのだという、論証しようのない確信だけなのだ。 カイヨワは遊びの分類を通じて、遊びが本質的に日常とは隔離されたものであることを浮き彫りにし、また、遊びの結びつきの巧妙さと脆さについてくわしく述べてきた。この本が文明の起源や人間のあり方を問うものであるためには、遊びがいかにして解きほぐされ、腐敗してしまうかについてが明らかにされなくてはならない。いいかえれば、彼は遊びの弱点を探しているのだ。もちろんそれは、遊びを破壊するためではない。いかにして遊びの堕落を避けることができるか、そして遊びの堕落に人はどのように対処することが可能なのかを知ろうとする試みなのだ。僕がこの本に惹かれる理由もそこにあるのかもしれない。遊びを文明の反映ではなく文明の発祥として捉えなおすことは、芸術に幅広い展望をもたらしてくれる。芸術家にとってその展望が必要になるのは、芸術を定義づけたり、芸術の役割を明らかにするためではない。芸術のプロであるためには、芸術のなかに身を置きながら、それの誘惑に打ち勝つ術をもてるかどうかにかかっていると思うからだ。

 

14 社会のモデルとしての遊びと、それ以外の何か
 

 遊びは暴力や裏切りを排除し、抽象的な約束事によって守られる世界を作ろうとし、そのような人間社会を予見するひな形である。しかし、制度と管理のモデルとしての遊びは、ともすれば内容よりも形式を好むところがあり、それが過ぎればただちに抑圧的で偏執的なものになってしまう。このように制度化した遊びが、現代において、ますます支配的になっていると見るか、ゆっくりと解消されつつあると見るかは、意見の分かれるところだろう。だがいずれにせよ、現実による遊びの浸食はつねにどこででもみられるものだ。それは些細なものから、気まぐれのように起こる暴動や犯罪にもあらわれている。そしてカイヨワが描写した古代社会の超自然的な力でさえも、いまや誰も信じなくなったとしても、本当の意味で消えてしまったわけではない。ちょうど幽霊を怖がる気持ちのようなもので、文明化された視点から見ればどれほどバカバカしく感じられようとも、この力は、いまなお僕たちのなかに残されていて、いつなんどき社会に湧き出てくるかもしれないものだ。それはかつてカイヨワが見た、熱狂と亡我の復活としてのファシズム、仮借ない暴力と敵意と化した戦争の姿であり、遊びが堕落し、自由が失われた社会の姿だ。狂気という言葉が適切かどうかは分からないが、このような精神が僕たちをとらえるということは、まったくの昔話とはいえないだろう。それに僕たちは他にも遊びのゆらぎに直面している。たとえば、現実におきている出来事を映像のスペクタクルとして受け取るとき、僕たちは現実と虚構の区別をなくしているのだし、そこではすでに僕らの遊びの精神に綻びが生じているといえるだろう。遊びの持つこのよう脆さは、それをロールモデルとする社会の脆さでもある。いずれの遊びも必然的に抽象的であり、なかば虚構であり、それにたいして現実は手心を加えてくれない。この遊びの弱点は、しかし、遊びの本性に由来するものなのだ。もしこの脆さがなければ、遊びはその創造性をも同時に失ってしまうとカイヨワは言う。きっとそうなのだろう。